一見細くて折れそうにも思える体は、いざ腕を回してみるとその薄くついた筋肉から、力強さを感じることができた。


 ひとしきり、抱きついたまま溢れ出した感情に従い泣き続けていた私は、かなり遠慮がちに頭と背に置かれた彼の手を、ゆっくりほんの少し押し返した。
 私の意を汲んでくれたその手がすっといなくなる。そのことを極僅かな恐怖と認識して、私は両の手の中に彼の衣を閉じ込めた。
 顔を上げると、神子、と彼の唇が動いた。

 ――夢じゃ、ないんだよね。

「……敦盛さん」
 声に出して名を呼べば、なんだろうか、としっかりした澄んだ響きが耳朶を打った。
 そうだ、これは紛れもない現実なんだ。
 ようやくそれを確信して、私は握りこんだままの両手を開くことができた。
 途端、消え去った不安の代わりに、気恥ずかしさがわきあがってくる。
 私は近付きすぎていた距離を不自然に思われないようさり気なく離しながら、泣きはらした、かなりみっともない顔を必死で笑顔に変える。
 そうして――これは現実なのだと自らへ言い聞かせるように――はっきりとした口調で、ずっとずっと言いたかったことを口にした。
「おかえりなさい」
 私を見つめ返す少しびっくりしたような顔は、やっぱり私の知っている敦盛さんで。
 いつだって伏し目がちになるその瞳を、今度ばかりは逃がすものかとじっと見つめ返す。
 つと、薄い唇が声にならない言葉を形作る――のを、幻視した。
 いや、あの、と。
 幾度となく聞いた、躊躇の言葉。
 優しさゆえの、決して伸ばされない手。
(私は――)
 敦盛さんに、掴んではならない幸せなんてないんだと――少なくとも貴方はその資格があると――そう教えたくてならなかった。
 もちろん、戻ってきてくれた敦盛さんを迷わすもの、そして幸せから遠ざけようとするもの、その全てがなくなったわけじゃない。
 敦盛さんは怨霊のままだ。
 自ら告白したように、いつ消えるともわからない――でも。
 今こうして、目の前にある幸せすら掴んではいけないなんて、そんなことはないはずだ。
(……それに、何よりも)
 今の敦盛さんならきっと、そのことはわかってくれている。そう思う。

(だって、……だから、戻ってきてくれたんですよね?)

 己の優しさで身を切り刻みながら、辛く苦しい旅路を乗り越えた、その先にあったもの。

 ――幸せを、掴むために。

 一度だけ瞑目して、ゆっくり開いた敦盛さんの瞳には、ふわりとした穏やかさが湛えられていた。

「……ただいま」

 今にも泣きそうなその笑顔。
 つられるように、私の涙腺が再び緩んだ。



*****



「はい、これでよし」
 景時さんが銃の形をした術具を上げる。ほっとしたように表情の強張りを解いた敦盛さんは、ずいぶんと簡素になった手首の戒めに目をやった。
 呪いの刻まれた腕輪は、あのものものしい鎖と違って「装身具」の域を出ることがない。
 これなら人前で袖をまくったとしても不審がられることはないだろう。
「本当に……大丈夫なのだろうか。いや、景時殿の手腕を疑うわけではないのだが」
「敦盛殿、兄上などに気を遣わなくていいのよ」
 私だって不安だもの、そうさらりと付け加えた朔に、景時さんが苦笑を浮かべる。
「心配ないって。そりゃあ俺だけでやったならともかく、望美ちゃんの力も込めたんだから」
 そう言って目配せする景時さんと、それもそうねと実の兄とは真逆の信用たっぷりの笑みを向けてくる朔と、
「そう……なのか」
 己の手首と私とをまじまじ見比べる敦盛さん。
 三者三様の視線を受けて私はちょっとだけたじろいだ。
「確かにそうですけど、でも、私はただ力を送っただけで、こうして封じの術にしてくれたのは景時さんですから」
 だって本当に、望美ちゃん手をかざしてみてくれる?とかそんな程度しかしていないのだ、私は。
 「龍神の神子」と言われるけど、実際は、そんな簡単なことばっかりでいいのかなって思うときがある。
 人の身では扱いきれない力を有している、それだけでまず凄いことなのだと、誰かに話す度に言われるけれど。
「いやあ望美ちゃん、持ち上げすぎだよそれは」
「あまり兄上をつけ上がらせては駄目よ望美」
 まんざらでもない笑顔の景時さんに、ため息混じりに半眼で隣を見やる朔。
 敦盛さんはといえば、冗談なのか本気なのかわからない兄妹の仲の良さを、少し困ったように眺めている。
 やがて指先でなぞるようにして触れていた腕輪に目を落として、確かに、と小さく呟いた。
「……景時殿。疑うようなことを言ってすまなかった。ありがとう」
「いやいや、どういたしまして」
「それから、神子」
「え、はい」
「本当に、ありがとう」
 改まって力強く、前へ進もうとする意思を含有した、たった一言。
 嬉しさみたいな――でも決してそれだけじゃないものが、ぎゅっとこみ上げてくる。
「いえ……そんな、私こそ」
 私は鼻の奥がつんとしてきたことに気付かないふりをして、
「ありがとう、ございま……っ」
 ずっと見てみたかった心からの笑みを浮かべるそのひとへ。

「……神子?」
「望美?」
「望美ちゃん?」

 精一杯の笑顔を向けた――つもり、だったのだけれど。
 続いた三人の声は、我慢していたそれを零れ落としてしまった、泣き虫な私を心配するものだった。



*****



「……あの、神子」
「はい、何ですか敦盛さん」
「……その」
「はい」
 以前のように言いよどんで視線を逸らした敦盛さんは、それなりに長い間逡巡して、のろのろと顔を上げた。
「や、やはり、……その、こういうのは、よくない、と……」
「その封印の呪いが安定するまで、なるべく私の側で力を受けた方がいい。……って、景時さんの説明、何度繰り返したらいいんですか?」
「だが……」
 敦盛さんの視線が泳ぐ。それを追うようにして、私も室内を軽く見回した。
 ここは京邸で私にあてがわれた部屋で。
 広すぎず狭すぎない室内に、二組分の茵が用意されている。
 そのそれぞれに、私と敦盛さんは正座して向かい合っているのだ。
「私と一緒に居るの嫌ですか?」
「っ、そうは言っていない。そんなことは、ない。決して」
「それじゃあ、いいじゃないですか。……もう遅いですから、休みましょう?」
 半ば押し切るように笑顔で提案すると、敦盛さんは表情を引きつらせながら、わかった、と答えてくれた。
 私は立ち上がって灯りを吹き消す。御簾越しの月明かりだけが頼りの中、私と敦盛さんは隣り合った茵に横たわった。
「敦盛さん」
 一拍の間を置いて、しゅるりと衣擦れの音が耳に届く。
 暗がりの中で私の方を向いた敦盛さんを認めて、私は右手を差し出した。
「……神子?」
「手、繋いでください」
 驚きに息を飲む声。続きそうな反論を遮るべく、私はさらに畳みかけた。
「それから、……もうそろそろ「神子」じゃなくて、名前で呼んでくれませんか」
 少しずつ視界が暗がりに慣れていく。
 しばらくして、反応のない敦盛さんの表情がこの上なく戸惑っているのがわかった。
(何だか、悪いことをしてるみたい)
 困らせたいわけじゃないのに。
 それは紛れもない本心だ。
(でも)
 譲る気なんてさらさらないのも、困ったことに本心で。
「名前、とは……その」
「私には「春日望美」って名前があります。呼びやすい言い方で構いませんから、呼んでくれませんか、敦盛さん」
 それから、手も。
 私は未だ取ってもらえない手をひらひらと振ってみせる。
 敦盛さんは迷ったあと、まず手のほうを先に伸ばしてきた。
 ぼんやりと物の輪郭がはっきりしない暗がりのなか。
 互いの指先が、不自然な位置で触れ合い――途端、びくりと敦盛さんの手が跳ねた。
「ぁ……、っす、すまない、その」
「暗いから距離感が掴めないですよね?」
 だから、直に触れて距離が把握できた今なら、もう大丈夫。
 口には出さずに視線でそれを告げて――伝わっただろうか?――そっと重ねられた手のひらに、少しずつ力を加えていって。
 指と指とを絡ませるようにして、ようやく私たちの手が繋がった。
 その間ずっと視線を合わせたままの私たちは、合図もなく同時に手の方を見やって、さらに同じタイミングで互いの顔を見合わせて、やはり二人一緒に小さく吹き出した。
 何だか、胸の奥がじんわりと暖まるようで――くすぐったい。
「……敦盛さん」
 繋がった手のひらから伝わる、仄かな温もり。
 私の体温と混ざり合って、ゆっくりと、そして確実に、温度を高めていく。

 それは、もう決してなくしたくなどないもの。
 それを、この手と手の間に閉じ込められたらいいのに。
 それが、私のささやかな願い。

「のぞ、……み」
 小さく、本当に小さく呟かれた声。
 けれどたったそれだけで、繋がった部分の熱に浮かされてぼんやりしていた私の思考が、一気に現実に引き戻された。
 まばたき一回分の間を空けてから、
「望美」
 今度ははっきりと、敦盛さんが発音したそれは、紛れもない私の名前で。
「……はい!」
 温かいというよりは熱いと感じてきた右手に、抑えきれない気持ちの全てを代替わりさせるよう、力を込める。
 応えるように握り返してきた力は予想以上に強くて、実は痛い程だったけれど。


 その全てが嬉しくてどうしようもなくて、どこか切なさにも似た感覚を伴う今このときを、私は胸の奥にしっかりと刻み込んだ。






 ごめんすいませんただあっつんに名前を呼ばせたかっただけなんだ……(反省)
 それからルート的にゆずゆは絶対居残りそうだけどごめん私にはそんなゆずゆは書けなかっ……(笑)

 ともあれ、これはいつもお世話になってるぴうさんにこっそり捧げます。いつもありがとうです萌え!

(2006/02/12 up)(※日記より移動)

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