去り行く背へ伸ばしかけた手を、力なく握り込んだ。
 しかし未練がましくそのまま宙に留まらせる。そうして彼が街路へ姿を消すのを見送った。
「……」
 お待ちになって、そう一言口にすればおそらく、立ち止まりはしてくれただろう。振り向くことはなかったかもしれないが。
 再会してから見続けている無言の背中。
 それはやんわりと、しかし確実に自分を拒絶しようとしている。ナタリアはそんな気がしてならなかった。
 否、この直感は間違いではない。
 そして、彼がそうするのは自分を嫌っているからではなく、むしろ心配や気遣いの元に取られている行為なのだ。
 そんな確信めいた何かが、今のナタリアから言葉を奪っていた。

 昔から優しいひとだったのだ。
 幼なじみとして、婚約者として、過ごした期間はたったの数年でしかなかったけれど、互いに通い合わせた心の深さは、誰よりも深く――奥底まで。
(アッシュ……)
 まだ彼からもらった心強さが温もりを伴っている気がして、ナタリアはそっと胸元で手を合わせた。
 ふるり、と体が震える。
 朝方は気温が下がるものだから、冷えないうちに宿へ戻ろう。ここに来る時は冷え切っていたはずの、今は確かな温度を纏った心がそう結論付けた。
 この温もりを抱いて眠れば、決意も揺るぎないものとなるに違いない――

「……聞こえちまったんだよ。それに声、かけにくい雰囲気だったしな」

 宿までのやや勾配気味の道を戻ろうとして、そんな声がナタリアの耳に届いた。
(ルーク?)
 明らかに誰かと話をしている口調である。
 予想するまでもなく話し相手は、
「……そう」
 彼をいつも気にかけてくれているティアだった。
 ナタリアは一度止めてしまった歩みを再開しようかどうか迷う。そうする間に、二人だけの話は収束へ向かいつつあった。

(……こちらこそ、声をかけにくい雰囲気ですわね)

 嫌味ではなく、ただ単純にそのあべこべな状況に可笑しさを感じて、ナタリアはくすりと笑った。
 ルークはティアの前では素直に心情を連ねる傾向にあった。
 ご多分に漏れずルークはぽろりと弱音を吐き出し、ティアに叱られ、宥められ――そうして宿へと戻っていく。
 もし今このタイミングで後に続いたならば、立ち聞きをしていたと疑われてもおかしくはないだろう。無論、ナタリアはルークと同じく、そんなつもりは一切なかったのだが。
(仕方ありませんわね)
 二人のやりとりで少しだけ心が和んだこともあって、ナタリアはどこか気分よく、元来た道を戻っていく。



*****



 いざ一人になって落ち着いてみると、――先ほどは気配を潜めることに集中していたので流してしまっていたのだが――ルークに彼との会話の一部始終を見られていたことに気付いた。
 つい数分前のやりとりを一つ一つ思い返して、聞かれて困るような話ではないと判断したものの、やはりどこか気恥ずかしさが残った。
(王族ともあろうものが立ち聞きだなんて……まったく、ガイの教育はツメが甘すぎますわ)
 ナタリアはそう冗談めかしてひとりごち、ふっと口元を緩めた。
(では、さっきの気配はルークだったのですわね)
 彼は普段から気配を感じさせない人だった。再会してからは特に。
 だから先刻は、自分にもわかるように――気遣いとして――わざわざ気配を表出させてくれたのかと、そう思ったのだが。どうやら違っていたらしい。
(ルークはきっと、私を心配して来てくれましたのね)
 髪を切って表に出るようになった、本来のルークの性分。
 思いかけず聞いてしまったティアとの会話からも、それで間違いないだろう。――つまり。

(私は……二人から心配されていた、ということですわ)

 ――ああ、やはり彼らは「ルーク」なのだ。

 二人同時に心配してやって来るとは、やはり似た者同士――というよりは、どちらもルークなのだと、ナタリアはそう解釈する。
(私は果報者ですわね。……ありがとう、ルーク。アッシュ)
 アッシュが言ったように、バチカルの皆が自分を支持してくれている。それはとても心強く、有難いものだった。
 だが、何よりも心強いのはやはり、他の誰でもない「ルーク」という存在だ。
 ナタリアにとっての「ルーク」とはそういうものだった。

 今「ルーク」と名乗る方には、――自分も含め――たくさんの心強い仲間がついている。
 厳しい母親代わりのようなティア、拙い成長を見守る父親のようなガイ。少しずつ態度を軟化させてきているジェイドとアニス。そして、ただ一心に主人に付き従おうとするミュウ。
 ルークは、大切な子供時代の十年を抜きにして、まだたった七年の時を過ごしたに過ぎない。多くの助言がなくては先へ進めないだろうことはわかる。
 自分がたくさんの命を奪って、それがもう二度と戻らないものだと理解したとき、ルークは悲痛に叫んでいた。

『こんなことになるなんて知らなかった! 誰も教えてくんなかっただろっ!』

 そう、ルークもまた世界を知らなかったのだ。
 あの大きいけれどちっぽけな屋敷の中だけを世界として生きていた彼に、この広大な世界を知る術はなかったのだ。
 崩落直後は色々なことが重なりすぎて見ていられなかったが、少なくとも、「今の」ナタリアはそう理解していた。
 何故なら、自分もそうであったように。
 幼い日、アッシュがこっそりと城から自分を連れ出してくれなければ、自分もルークと同じことを叫ぶ日が来たのかもしれなかった。

(真実を知るためには……自分の目で、自分の足で、確かめる……)

 だから、本当なら――何も知らなかったルークへ、そのことを教えてあげるべきだったのは、自分であったのかもしれない。
 彼の意志に賛同する者として。約束を誓った者として。
 たが、――繰り返すようだが――今のルークには、ティアやガイといった心強い味方がいる。

(ならば、あなたには、私が……――と思うのは、身勝手で、傲慢な考えなのでしょうか)

 十年からそれ以降を、なかったこととして過ごしてきたアッシュ。
 再会して、生きていてくれただけでなく――何より、約束を覚えていてくれたことが嬉しかった。それだけで、これまでの何かが満たされた気がして。

(あなたは今になっても、私を助けてくれる……では、私は? あなたという存在を七年も知らぬまま、私がしていたのはただ待っていただけ。私に、返せるものはないのですか、アッシュ)

 約束をし、婚約の儀を執り行った相手が戻ってきてくれたから、ではない。
 この気持ちは、ただ――

(私も、あなたに何か、してさしあげたいのです。……私では、あなたの力にはなれないのですか)

 見返りが欲しいわけではなく。
 ただ、ただ約束を覚えていてくれた、そのことに対してのこの喜びを、感謝を、どう伝えたらいいのかわからなくて。
 きっと言葉だけでは伝えきれないと思ったから、ならば行動で報いたいと思って。
 ほんとうに、――今はただ、それだけで。

 ナタリアはきゅっと目を瞑った。
 手助けなど必要ないと、一人で全てを片付けようとする彼。
 その彼の力になるには、たぶん、今の自分では無理なのだろう。こうして弱音を吐いて、心配させてしまうようでは。
(私は未だ、至らぬところばかり)

 ――ならば、すべきことは一つしかなかった。

 閉じていた瞳が開かれる。
 そこにあるのは弱々しく不安定に揺れる心情ではなく、ただ一つの強い意志と決意。
 幼き日の約束に守られた、折れることのない彼女の心の顕れだった。
(あなたが帰ってくる場所は、キムラスカであり、バチカルですわ)
 昇ってくる朝日に目を眇めながら、短く息を吸う。

(ですから、まず私は、そこを守れるようにならねばなりません。あなたがいつか、帰ってきてくださる日のために)

 不安や恐れがないと言えば嘘になる。
 けれど、ナタリアには一つの約束があった。
 それだけは何があっても守り通さねばならないと、幼心に誓った、たった一つの大切な宝物。
 ナタリアはそれがあったからここまで来れたし、今も困難に立ち向かうことができている。

(負けませんわ。私とあなたが、死ぬまで暮らす街であり、国であり、世界です。――きっと、守り抜いてみせます)

 そのためにはまず、己が身にふりかかった問題を解決しなければならない。
 こんなことに躓いているようでは、約束の完遂などできはしないのだ。

「私、やりますわ、アッシュ。約束は守ります」


 ――だって、あなたは覚えていてくださったのだから。






 立ち聞きがバレていたるくたんのフォローをしようと思ってぐるぐる考えていて、ふと気が付いたらナタリアたんが大いに立ち直ってしまった、というお話。
 ナタリアたんはつい強い娘さんとして書いてしまいます。
 本編中で「弱さ」という部分を見せられてしまったせいもあると思うんですが(だから逆にティアとかは弱々しいのを書いてみたい気がしないでもない)

 真のツンデレはもうナタリアたんに負い目とか引け目っぽいのを一人で勝手に思い込んでそのまま突っ走って逝ってしまった気がするとです。
 もうね、おまえはアホにも程がありますからと。
 少しは人の話を聞きやがれと。
 というかその間違った方向への思い込みの激しさは父親ゆずりだなあとか思ったらうっかり和んでしまったよ。どうしてくれる!(そこで逆ギレされても)

(2006/02/12 up)(※日記より移動)

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