「おやすみ、レイカちゃん」
 宿の階段をのぼりきったところで、そんな小声がクロアの耳に届いた。聞き慣れたはずの声はどこか弾んでいて、甘ったるい幼さをも感じさせる。
 声の主は閉じた扉の前で一人笑みをこぼしていた。ルカ、とクロアが名前を呼ぶと、やはり笑顔で振り返り、彼の名を呼びかえす。
 その笑顔の質が、先刻のものとは微妙に違っていたことにクロアは気付かなかったが――当のルカ自身も気付いてはいなかった。
「クローシェ様と話してたのか」
「うん。クロアは?」
「喉が渇いたんで、下へ水を貰いに行ってた」
 クロアは中身の入った水差しを軽く掲げてみせた。
 そうなんだ、と相槌を打ったルカがちらりと後ろを見やる。彼女としてはさり気なさを装ったつもりだったのだが、クロアにはしっかり気付かれていた。
「ルカ。何かあるのか?」
「う、ううん。何もないよっ」
 そう答えてからも、ルカはきょろきょろと周囲に気を配っている。
 御子御一行、といって今更闇討ちなどはされないだろうが、一応クロアも辺りの気配を探ってみた。もちろん何も感じられない。
「ルカ、大丈夫だ。誰もいない」
「……うん。あの、クロア」
「何だ?」
 ルカは少し口ごもってから、夜間なのを気にしてか小さな声で言う。
「私もちょっと喉が渇いちゃったから、お水貰いたいなー、なんて……」
「そんなことか。待っててくれ、今コップを持ってくるから」
「ま、待ってクロア、そうじゃなくてっ」
 自室へ向かおうとしたクロアを、ルカは慌てて引き留める。
 首だけ振り向かせたクロアと目が合うと、ルカは咄嗟に掴んでいた袖から手を離した。
「ルカ?」
「……だから、クロアの部屋で貰いたいなーって意味、なんだけど……も、もー、それぐらい察してよぅー!」
 ルカは声のトーンと音量を下げつつ、顔の赤さだけを増していく。
 宿に泊まった時など、クロアは度々ルカやクローシェらと会話をしている。それは専らクロアが彼女たちの部屋を訪れて行われていた。
 逆に、女性陣の方からクロアの部屋を訪ねることはほとんどなく、おそらく彼女達の中で不文律にでもなっているのだろうと、以前のクロアはそう勝手に解釈していた。
 だが今のクロアは、ルカを護ると改めて誓い、ルカのコスモスフィアもだいぶ深いところまで潜らせてもらっている。
 ルカの挙動不審な態度にも理解が及ぶというものだ。
「……わかった」
 ルカへの好意を自覚している男として、ここでクロアの口元がにやけてしまっても誰も責めたりはしないだろう。だがクロアはその衝動を当然のように抑え込んだ。
 了承の意だけを言葉にして、自分の部屋の扉を開けてやる。
 ただ――そうしてルカを招き入れた後、扉をなるべく静かに閉めたのは、二人だけの秘め事じみた現状を保っておきたかったからに他ならない。



「ほら、ルカ」
「ありがとう」
 コップを受け取ったルカは、中身の半分ほどを一気に飲み干した。微笑ましく見つめるクロアの視線に気付くと、照れ臭そうに笑ってみせる。
「なんかね、今日は二人ですごい盛り上がっちゃって。だいぶ長くお話してたから」
 つまり、「察して」と言ったルカの「喉が渇いた」という理由は、適当にでっちあげた口実ではない、ということになる。
 そんな、あえて話さなくてもいいことを話すルカに、クロアは僅かに苦笑した。
 照れ隠しなのか、勘違いしないでと牽制されているのか。今のクロアには、それがどちらなのか判断できなかった。
「そういえば、さっきクローシェ様のこと、「レイカちゃん」って呼んでたな」
「あ、うん。本当はいつもそう呼んでたいんだけど……他の人が聞いたら変に思われちゃうだろうし」
「そうだな……」
 彼女たちが姉妹であること、そして離ればなれになっていた理由――何にしても大っぴらに話せることではない。
 ただでさえ二人は、今をときめく御子様なのである。その上、メタファリカは民衆の心を一つにして謳わねば、大地創造へ繋がらない。
 要らぬ醜聞は立てないに越したことはないのだ。
「だから二人きりのときだけ、そう呼ぶことにしたんだ。……えへへ、レイカちゃんもね、私のこと「お姉ちゃん」って呼んでくれるんだよ?」
 本当に嬉しそうに、むしろだらしなく頬を緩めているルカに、クロアは自然と目を眇める。
 そんな彼女が眩しく思えたのか、遠く思えたのか――やはり、今のクロアにはわからない。
「良かったな、ルカ」
「うん!」
 わからないことを考えてみても仕方がない。
 にやけながら元気よく返事をするルカと対照的に、クロアは真面目な顔で、答えが見つかりやすい方へ思考を巡らせた。
「……確かに、いつも気兼ねなくそう呼び合えたらいいんだけどな」
「私もそうしたい」
 同意したルカの表情から、ふやけた調子が抜けていく。自然、クロアの視線が引き寄せられる。
「でもやっぱりそれは無理だと思うんだ。仮にメタファリカを紡げたとしても、やっぱりクローシェ様はクローシェ様でいなきゃいけないと思うし。私も今更クローシェ・レーテル・パスタリエです、なんてピンとこないしね」
 だからやっぱり二人きりのときだけでじゅうぶんだよ、とルカは再び笑った。
 寂しそうにも見える、けれど心強さを秘めた微笑み。それについてはクロアにも、眩しい、と断言することができた。
 だから、思ったことが自然と口をついていた。
「もしこの旅が終わったら……そのときは、事情を知ってる人の前でならいいんじゃないか?」
「……うん、そうだね。そうできたらいいなあ」
 ルカの言葉にどこか遠いものを見るニュアンスを感じ取りながら、クロアは続ける。
「そうなった方が俺も嬉しいしな」
「クロアが?」
 ルカがぱちくりと目を瞬く。
「……どうして?」
「クローシェ様と姉妹として仲良くしてるときのルカは、自然体というか……変に入ってた力が抜けてるっていうのかな。普段より楽にしてるって感じがして……見ててほっとする。それに、楽しそうだしな」
「そ、そうかな。……というか、私が楽しいと、クロアが嬉しいの?」
「ああ。まあ俺はただ、楽しそうにしてるルカが見たいんだと思う。そういうルカはいつもより何倍も可愛いし」
「かっ、かわ……っ、とか、そんなことあるわけないよっ」
「あるさ。ルカが気付いてないだけで、すごい可愛いと思うけど」
「……も、もう。おだてても何も出ないよ?」
「おだててなんかない」
「も、もーいいからー! この話はここまでっ、ストップ!」
 実際、世辞を言ったつもりはまるでなかったクロアからすれば、ただ事実を述べただけでこうも動揺するルカが可愛くてしょうがなかったりする。
 だがこれ以上続けているとルカが本気でむくれてしまいそうなので、クロアは渋々従うことにした。
 顔の赤味が取れないルカは、コップに残った水をまたも一気に飲み干した。
「まだ飲むか?」
「……ううん、いい。私、そろそろ戻るね」
「ああ」
「お水ありがと、クロア」
 ルカはコップを渡し、見送ろうとするクロアから逃げるように、そそくさとドアを開けた。
「おやすみなさい」
 ぱたん、と静かに扉が閉まる。
 クロアは何気なく手の中のコップを見つめていたが、やがてゆるく頭を振るとそれをサイドテーブルに置いた。
 備えつけのコップをもう一つ出してきて、水差しから水を注ぐ。
「……」
 一体どうしたらルカをもっと笑顔にすることができるだろう。
 そんなことを考えながら、クロアはコップをぐっと煽った。



*****



 自分に割り当てられた部屋へ向かい、廊下を歩く。時刻はそこそこ遅いので、足音が響かないようにそっと、ゆっくり。
 先刻言われたことが、自然と思い出される。
(レイカちゃんと一緒のときの私は自然、かぁ)
 確かにそうかもしれない、とルカは思う。
 インフェルスフィアを完了させたことにより、ルカとクローシェは心の深いところまで繋がることができ、互いを認め合い、わかりあうことができた。
(レイカちゃんのお姉ちゃん、としての私は……確かに楽かも)
 思うまま、素直に行動できている、そんな気はしていた。
 もちろん何も考えていないわけではないが、妙な気を遣わなくともいい。
 話したくなければ話さなければいいし、ただ側にいるだけでもそれなりに間は持つ。
 目と目を合わせただけでなんとなく雰囲気を読んで微笑み合えるのは、とても安心できることだった。
(じゃあ、――クロアと一緒のときの私はどうなんだろう?)
 ルカの頭は即座に答えを出してきた。楽なんかじゃない、と。
 それはもちろん、妹と比べての話である。他の仲間や知り合いと比べたら、ルカにとってのクロアは頼れる存在であったし、安心感もある。
 確かに、クロアと一緒のとき、楽だと感じることはある。楽しいこともそれなりにある。
 だが決して、妹の時と同じぐらいに気を抜けるわけではないのだ。何か失敗したりしないよう、彼を傷つけたりしないよう、常に気は張り続けている。
 また、クロアにはコスモスフィアの深層まで入ってきてもらっているとはいえ、最下層までは至っていない。
 つまり、ルカはまだクロアに全てを許せてはいないのである。
(正直な話、まだちょっとだけ怖い。……でも、クロアともっとわかりあいたいのは、本当)
 ルカはそっと後ろを振り返った。
 自ら閉じてきた扉の向こう。その先にいる大切な人。
(いつか、クロアとも自然に接することができるようになったら、いいのに)
 気持ちは確かにここにあるのに、それを言葉にして現実にすることができない。それはひどくもどかしいが、けれど踏み出すのはもっと怖かった。
 それぐらいルカは、クロアという存在を失うことを恐れていた。
 それほどまでに、彼を求めているのに――そんな臆病な自分に、ルカは振り返るのを止め、そっとため息をついた。
「……なれると、いいな」
 誰にも聞かれないよう、ルカは小さく呟いた。自分しか知らなければ、それは言っていないのと同じ。だからまだ現実には成っていない。
 そうして、ルカは言葉の重みを確かめた。
 これを本当にするには、もっとちゃんとした、たくさんの覚悟が必要だと思い知る。
(――うん。頑張らなくちゃ。メタファリカも)
 そこから先も続いていくはずの、クロアとのことも。
 ルカは少しだけ改めた覚悟とともに、そっと自分に割り当てられた部屋へと戻った。
 このとてつもない恐怖を乗り越えた先にはきっと、レイカちゃんと同じかそれ以上の、心地良い暖かさが満ちていると信じて。







 IS終わって御子ズが先に仲良くなっちゃったのが不満だったわけじゃないけど、だが主人公を差し置いてそりゃどうなんだともごもごしたりしなかったりしたので、まあその何だ、こうですか? わかりません! みたいな(えー)

(2007/12/02 up)

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