窓の向こうの夜空を見て、クロアは静かに息をついた。
 彼が護衛を担当しているルカは、朝から御子業一本で通していた。午前はちょっとした報告会、午後は大々的な式典に参加し、夜はパーティーという名の、政治的な意味合いを多分に含んだ懇親会。
 それらは普段、ルカの妹のクローシェが主だってやっていることだ。しかしいつまでもクローシェ一人に任せっきりにするのはよくないと、ルカ当人が申し出た末、今日のスケジュールが出来上がった。
 大陸が紡がれたといって、すぐに移住ができるわけではない。綿密な調査と検討をふまえた上でようやく試験的なものが始められる。
 その作業はどれだけ急ピッチで進めたとしても、一ヶ月やそこらでできるものでない。またその手順を踏まず、もし新大陸に問題があったとしたら、それこそいつかの二の舞になりかねない。
 慎重さと速度。相反するそれを求められた当代の御子は実によくやっている方なのだが――新大陸を心待ちにしていた者達の焦りや苛立ちは、その期待の大きさに比例して肥大化していく。
 そして、その苛立ちの矛先は、政治家として矢面に立っているクローシェだけでなく、歌手業と御子業を兼業するルカに向かうことも多かった。
 曰く――歌を歌ってアイドル気取りのセラピストな御子様は、紡ぐだけ紡いだら後はもう一人に任せて遊びほうけている、と。
 無論、そんなことをラクシャクなどで言おうものなら半殺しの目に遭ってもおかしくはない。
 だがそこから離れた地ではそうはいかない。歌手として各地を飛び回っているルカを見て、そんな馬鹿げた感想を抱く者がいるのは確かなのだ。
 そして、そんな心ない声が、ルカの耳に届かないわけがなかった。

 彼女を護ると言っておきながら、護れているのはその場の身の安全だけ。彼女の心は――あれだけ辛い苦しいと傷ついていた彼女の心は、ひっそりと傷つき続けている。
 己の無力さを噛み締めながら、クロアは御子たちに危害を加える者がいないよう、知らず目つきを鋭くした。


*****


 濡れた髪をタオルで擦りつつ報告資料に目を通していると、控えめなノックの音が響いた。
 特有のリズムで叩かれたドアへ素早く近づいて、クロアはドアを開ける。そこにいたのはもちろん、ノックの方法を決め合ったルカだ。
「遅くにごめんね」
「それは構わないが……何かあったのか?」
「ううん。特に何もない。……ただ、クロアとちょっとお話したいなーって」
 えへへ、と笑う彼女にクロアはようやく相好を崩し、部屋の中へと招き入れた。
 クロアが書類を散らしたままのベッドを片付けようとすると、ルカは横から一枚を抜き取った。
「昼間の?」
「ああ。コピーを貰えるよう頼んでおいたんだ」
「クロアは仕事熱心だね」
「そんなことない。……まだまだ足りないぐらいだ」
 クロアが小さく付け加えた言葉をルカはもちろん聞き取っていたが、気付かないふりをする。
 代わりに、クロアの手から集め終えた書類を取り上げた。
「おい、ルカ」
「いいからいいから。それともクロアは、私と話すのに書類が必要なの?」
「……わかったよ」
「よろしい!」
 まとめた書類をサイドテーブルに置くと、ルカは当然のようにベッドに座る。
 そうして、ぽふぽふ、とサイドテーブルとは逆側の隣を叩くルカに、クロアは苦笑気味に従った。
「今日も大変だったけど、無事に終わったね」
「そうだな」
「お疲れ様、クロア」
「それは俺よりルカの方だろ? お疲れ様。よくやったな」
 クロアが髪飾りをつけていないルカの頭をそっと撫でる。その髪がしっとりしているのは、先程姉妹仲良く風呂に入っていたせいだろう。
「えへへ。……確かに今日は大変だったけど、クローシェ様もずっと横にいてくれたし、それに」
 上目遣いを向けたルカが、柔らかく微笑んだ。
「後ろにクロアがいてくれたから、頑張れたのもあるんだよ? だから、ありがとう、クロア」
「……お礼を言われるほどのことじゃない。俺は当然のことをしてただけだ」
「それでも、助かったのは事実だよ。だからお礼を言いに来たの。クロアがいてくれて良かったって」
 いつの間にかルカの頭からシーツの上へ落ちていたクロアの手に、ルカのそれがそっと重なる。
「ルカ……」
「ありがとう、クロア」
 ただひたすら笑顔でじっと見つめてくるルカに根負けして、クロアは観念したように呟いた。
「……どういたしまして」
「うんっ」
 ルカは満足げに頷くと、重ねていた手をさっさと離す。
 やられた、と内心クロアは思ったが、まあいいかと思い直した。惚れた弱みにはどう足掻いても勝てはしない。
 ほんの少しの沈黙のあと、ルカが立ち上がった。
 言いたいことを言ったので帰るのだろうか。そう思ったクロアが腰を上げようとすると、制止がかかった。
「ルカ?」
 呼び掛けには答えずに、クロアの目の前に立ったルカがゆっくりと手を伸ばした。眼鏡のつるを指先でつまみ、そっと外す。
 折りたたんだ眼鏡を先程の書類の上へ置いて戻ってくると、ルカがもう一度手を――両腕を伸ばしてくる。結果、二人の距離が一歩半ほど詰められた。
 控えめな胸に抱かれたクロアの鼻孔を、いい香りがくすぐる。
「……ルカ」
「あは、クローシェ様みたいに大きくないから、あまり気持ちよくないかもしれないけど」
「そんなことない。ちゃんと気持ちいい」
「っひゃあ!? ちょっ、だ、だっ、め!!」
 ひどく自然に自分の体へ添えられた手を、ルカは慌てて掴んで引きはがした。そのままクロアの両手をシーツの上に戻させた後、彼をじっと睨み付ける。
 クロアにとってそれは怒られているというより余計煽られているという感じが否めなかったが、口には出さずにおいた。
「少しじっとしててっ」
 そう言いつけてから、ルカはまた同じ体勢に戻った。ぎゅう、とゆるく抱き締められる頭部、眼前から伝わる温もり。
 これは新手の拷問だろうかとクロアが疑い始めたとき、ルカの手が動いた。
「えへへ、クロアはよく頑張りましたっ」
 ゆっくりと、ルカの手のひらがクロアの頭を撫でていく。
 いまいち展開について行けず、現状を把握するのにしばしかかったクロアは、妙に動揺している自分を嘲笑うように呟いた。
「子供扱いか?」
「そうだよ。だって私の方がクロアよりお姉さんだもん」
 ルカが得意げに鼻を鳴らす。大して変わらないじゃないか、とクロアは心中で反論した。
「だから、クロアはもーちょっと甘えてくれてもいいと思うんだけどな」
 ルカの手は飽きることなくクロアの頭を撫でさする。
 くすぐったいけれど止めて欲しくはない心地よさ、こんなことをされていていいのだろうかという奇妙な罪悪感――微妙に相反する感覚が、クロアを戸惑わせていく。
「そりゃ私じゃ頼りないかもしれないけど」
「そんなことは」
「うん、あるよね? 一つもないなんて言い切れないよね?」
「……言葉遊びだ、それは」
「素直に認めたらいいのに。別に私は気にしないよ?」
「……」
「ふふ、クロアって可愛いよね」
 搦め手で言い負かされて、さらに不名誉な褒め方をされて、クロアの戸惑いはますます大きくなっていく。
 心地良かったはずの状況が、徐々に居心地の悪いものへと塗り替えられて――このままでは良くない、とクロアの中で何かが警鐘を鳴らした。
 だがクロアは動けない。
 ルカの手を振り解くことなど、今のクロアに出来はしなかった。
 そうせめて、ルカの真意がわかるまでは。不用意な言動で彼女を傷つけることだけは、今の彼にとって何よりもしてはならないことだったから。
「弱音とか、不満に思ってることとかそういうの、言ってくれていいんだよ? もちろん、言われても、私には何もできないことの方が多いと思う。でも、聞くだけならいくらでもできるんだから」
 名セラピストの言うことに一つも嘘を見出せないまま、クロアはただされるがままだ。
「私ばっかり甘やかさないで、たまにはクロアも甘えてよ。不公平だよ」
 ルカは頭を撫でるのを止め、クロアの頭を抱きかかえる。
「……私はもっとクロアのこと知りたい。クロアが強いこと、優しいこと――たくさん知ってるよ。でも、他のことってあまり知らない。クロアのかっこ悪いとことか、自分で嫌だなって思ってることとかも、ちゃんと知りたいの」
「……愛想が尽きるかもしれないぞ」
「それはないよ」
 クロアの妙に乾いた声を遮るように、ルカは断言する。
「知ってるくせに。私はもうクロアがいなきゃだめな子なんだって。……ずるいよクロア」
 ルカの手に力がこもる。クロアは手を持ち上げて――ほんの少し、ルカの身体に添える。引き寄せていいのか悪いのか数秒迷って、結局、その温もりに抗えなかった。
 だから、彼の口をつくのは謝罪の言葉だ。
「……ごめん、ルカ」
「クロア、」
「でも、……今だけ、こうさせてくれたら、嬉しい」
「今だけじゃない。これから先も、ずっとそうして欲しいって、言ってるんだよ?」
「わかってる」
 わかっているから――だからこそ、今はそうできない。
 その微妙なニュアンスがうまく説明できそうになかったので、クロアは別の言い方に変えた。
「ルカにこうされるの、嫌いじゃない。心地良いし」
「そっか。なら良かった」
「……ありがとう、ルカ」
 今はそう伝えるだけで精一杯だった。
 彼女を護ろうとしているのに護りきれず、そうして消沈していたら当の本人に慰められた。このやりきれなさを、彼女は話してみろと言う。
(無理だ)
 少なくとも、このやりきれなさに支配されている間は。何よりこの感覚は、時間経過で薄れていくことはわかっている。
 今は偶々そのピークというだけで――否、もしかしたらルカは、それすらもわかっていて来たのかもしれない。
 ――だとしたら。
 彼女の厚意を無にすることも、やはりクロアにはできないことだった。
「……ルカを」
「……私を?」
「ルカを、護りたい」
「うん」
「もっと、ルカが傷ついたり辛い思いをしないように、ルカを護りたいんだ」
 絞り出すように告げる声。
「……言ってもクロアは聞いてくれないんだろうけど、でも言うね」
 ルカはその声から確かな痛みを感じ取り、そっと目を閉じ、小さく祈る。
「クロアはちゃんと私のこと護ってくれてるよ? それと、完璧な人間なんていないと思うんだけどな。人間、生きてて傷つかないなんてことありえないし」
 どうかこの痛みを共有できますようにと。
「ねえクロア。私もクロアのことを護りたい。クロアのことが大事だから。クロアのことが好きだから。これから先もずっと一緒にいたいから」
 共有することで、少しでも痛みが和らぎますようにと。
「だから、クロアのこともっと私に教えて欲しい。クロアのこと、もっと知りたい」
 そして、あなたとわたしがひとつになりますように――

 背中に回った腕に、これでもかと力が込められる。
 抱き潰されそうな圧迫感とわずかな痛みに、ルカは小さく微笑んだ。







 ルカ当人はレイカちゃんに風呂場でさんざん慰めてもらったので元気という流れで一つ。

 ED後のクロアからムッツリを抜いたら眼鏡しか残らないと気付いた(ぉ
 そこからさらに眼鏡を取ってしまうと、あとはひたすら自分を下げていくだけの人なんじゃないかとか思えてきた(うんそろそろ現実世界に戻って来ような)

(2007/12/09 up)

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