「……っ、んぅ……」
 舞台の裏側にあるパイプやら何やらが詰まっているその隙間に細い身体を押し込めるようにして、長時間歌を紡ぎ続けた唇を半ば強引に塞ぐ。
 驚いたのだろう、ルカは最初じたじたと暴れていたが、そのうち大人しくされるがままになった。
 ルカの咥内を支配し尽くして、ゆっくりと唇を離す。そんなことをしても、ルカの全てを手に入れることはできないのに――今やルカは世界のものと言っても過言ではないのだから。
「クロア……」
 荒い息の合間に、掠れた声で呼ばれる。そうしてどこか嬉しそうにはにかまれ、罪悪感に似た何かがじわりと染み出した。
 思わず口をつきそうになった言葉をぐっと飲み込んで、なるべく優しく告げる。
「そろそろ帰ろう。明日の会議はいつもより三十分早いし」
「……うん。でも」
「ルカのために集まって協力してくれた皆に、感謝したいのはわかってる。でも、ルカが遅くまで付き合って明日無理をするなんて、誰も望んでないと思うけどな」
「……」
「俺だってそうだ。それにきっと、クローシェ様も」
 その名前を出すと、ルカはそっと唇を噛んで俯いた。
 卑怯な手だとはわかっている。けれど、これが何よりも効果覿面なのだ。クローシェ様に迷惑はかけたくない――ルカはいつだって、その信念に囚われて、そして無理をするのだから。
「……うん、そうだね」
 顔を上げたルカは、いつもの笑みを浮かべていた。楽屋で打ち上げに参加している人達なら、十分誤魔化せるレベルだ。
「行こう」
 ルカの肩を抱いて、先刻、二人バラバラのタイミングで抜け出してきた楽屋へと向かわせる。
 扉の前でさり気なく手を外し、室内から死角になる位置まで下がる。
 ノブを握ったルカは一度深呼吸をしてから、それを勢いよく開け放った。
「お、主役のご帰還だな!」
「えへへ、ただいま戻りましたっ。……えと、それでね、みんな盛り上がってるところに悪いんだけど、明日もちょっと早いから、このへんで失礼させてもらおうかなって……本当にごめんなさい!」
 ブーイングの一つもあがるかと思っていた室内からは、なんだそうか、とあっさりした許容の声が聞こえてきた。
「そうかルカちゃん明日は御子様かあ」
「それは休んでから行かないとだな。大変なのに頑張るな、ルカちゃんは」
「そ、そんなことないですよぅ、当然のことですから!」
「当然でも何でも、大変なことに変わりはないよねえ。あまり無理しないでおくれよ」
「はい、ありがとうございます! ……あの、お代は後でこっちに回してくれればいいので、みんなは最後まで楽しんでいって下さい」
「おうよ、今日のルカちゃんを肴に飲み明かさせてもらうぜ!」
「そうそう。それに、主役抜きで俺達が勝手に楽しむんだから、代金とかそんな水くさいこと言わないでくれよ」
「で、でも……」
「ルカ」
 気っ風の良い提案に戸惑うルカの肩に手を置き、室内へと軽く頭を下げた。大体の人達は察してくれたようで、頷き返してくれる人もいた。
「クロア」
「せっかくだから、ご厚意に甘えてもいいんじゃないか?」
「う……うん。あの、ありがとうございますっ」
 ぺこりと深くお辞儀をするルカに、気にするない、と豪快な声がかかる。
「ルカは責任持って送って行きますので」
「おうクロア、ちゃんと送り届けろよー!」
「俺たちのルカちゃんに何かあったら承知しないからな!」
「わかってます」
 真摯に応えると、皆は満足そうによし、と頷いてくれた。
 送り狼になるなよ、といった冗談――になってないかけ声――がかからなくなってきたのは有難い。
「それじゃあ、失礼します。今日はお疲れ様でした! それから、本当にありがとうございました!」
 扉の所で頭を下げるルカを置いて、室内にあるルカの荷物を回収していると、女性スタッフの一人が声をかけてきた。
「まだ外にファンが残ってると思うから、楽屋口じゃなくて搬入口から出た方がいいかも。場所わかる?」
「はい。そうさせてもらいます。ありがとう」
 クロア、と背中に声がかかった。
 振り向くと、ルカはいつの間にかファンからの花束やらプレゼントやらを抱えていた。もちろんそれはほんの一部でしかない。残りの、楽屋の隅にごっちゃり置かれた分は後で送ってもらうのだろう。
 最後に二人で頭を下げて、楽屋を後にした。
「あれクロア、出口こっちだよ?」
「ファンの人たちがまだいるらしいから、搬入口からの方がいいんじゃないかって、さっき。こっちでいいんだよな」
「あ、うん。……さっきって、その、照明の女の人?」
「何の人かは知らないけど、さっき楽屋で話した人だよ」
「そっか、今日クロアはお客さんだったんだもんね。……そっか、えへへ、そうだよねっ」
 ルカは何かを誤魔化すみたいに笑って、こっち、と搬入口への先導を始めた。



 実際に楽屋口の方ではファンが出待ちをしていたらしい。
 少し騒がしくなっていた逆側の出口を気にしつつ、二人でそっと会場を抜け出し、路地裏に回る。大通りを歩いて見つかって囲まれては元も子もないので、狭くて入り組んだそのルートを採用した。
 それにルカにとってラクシャクは自分の庭のようなものだから、道に迷うこともないし、人通りが少ないコースも熟知している。
 よって道案内はルカに任せて、二人きりで帰途を進んだ。
「……やっぱり、悪いことしちゃったなあ……」
 打ち上げを途中で抜け出してきたことに、ルカは今も罪悪感を感じているようだ。
「仕方ないさ。それに、みんなもわかってくれてる」
 しょんぼりと下を向いた頭にそっと手を置くと、しばらくしてうん、と頷かれた。そっと手を外す。
「お疲れ様、ルカ」
「うん、クロアも来てくれてありがとうね! あ、そこ気をつけてね、段差になってるから」
「ああ」
 灯りがあまり届いていない夜道で、ルカのナビは的確だ。
 手を繋いで歩ければいいのだが、あいにくとどちらの手も荷物で埋まってしまっている。
「今日はありがとうな、ルカ」
「え?」
「客として呼んでくれて。すごい良かった。というか、客として聞くと全然違うんだな」
「そ、そうかな……でも、うん。なら良かった」
「感動したよ」
「えへへ、ありがとっ。……またいつか、クローシェ様にもお客さんとして聞いてもらいたいな」
 以前一度だけ、多忙を極めるクローシェ様がスケジュールの合間を縫って、コンサートを聴きにきたことがあった。
 その時はどこからか御子様が来ているという話が広まり、会場が大騒ぎになったものだ。おかげで開始時間が遅れ、クローシェ様は舞台袖からの鑑賞となり、結局最後まで聴けぬまま会場を後にしたのだ。
 アンコール前に舞台袖に戻ってきて、クローシェ様が帰ったことを知ったルカはだいぶしょんぼりしていた。もちろん、アンコールは笑顔で出て行ったが。
「そうだな」
 再び、ルカの頭に手を乗せる。
「ね、そのときはクロアも協力してねっ」
「ああ。もちろんだ」
 事前に色々と計画を練っておく必要があるだろう。後でタルガーナにも協力を仰ぐべきか。
 つと、会話が途切れる。
 そうだ、アンコールと言えば――さっき思い出したことがあった。
「そういえば、何て言ってたんだ?」
「え?」
「アンコールの直前。ヒュムノスで、何か言ってたよな」
「あ、……うん」
 ぼんやりとした夜闇の中、ルカがそっと視線を逸らしたのがわかった。
「いや、言いたくなかったら、別にいい」
「……ううん。その……あれは、クロアに言ったようなものだし……」
 もごもごと語尾を濁しながら、ルカはその場に立ち止まった。
 月明かりと、一つ向こうの路地にある街灯で、かろうじてルカの表情が視認できる。その頬は何故か淡く染まっていた。
「ほ、本当はね。途中のトークの時間のときに、その……今日はこの会場に、私の大切な人が来てくれてますって、みんなに言うつもりだったの」
 がさり、とルカの持った花束が音を立てた。
「でも、前のクローシェ様のこともあったし、もし騒ぎになっちゃったりしたらクロアにも迷惑がかかっちゃうと思って……でも、せっかくお客さんで来てもらったのに、こんなチャンス滅多にないって思って」
 ルカは幾度かきょときょとと視線をさ迷わせて、それから、意を決したように続けた。
「あの時に言ったのはね、 yor irs en mea irs. ――あなたがいるから、私がここにいます、って。他にもね、一番大切な人に捧げます、とか大好きなクロアへ、とか候補はあったんだけど、客席にクロアがいるんだなって改めて思ったら、なんか妙に緊張してきちゃって考えてたこと真っ白になっちゃって、咄嗟に出てきたのがそれで」
 続けるうちにどんどん早口になっていくルカは、そこまで言ってようやく言葉を切った。
 反応のできないこちらをそっと窺って――月明かりか何かで眼鏡が反射して、表情が見えなかったのかもしれない――小さく俯いた。
 それは決して気を落としたわけではなく、単なる照れ隠しであったらしいと、続く声色で知れる。
「今日はね、本当は……クロアのこと、客席にいるみんなに紹介したかったの」
「紹介?」
「うん。今の私があるのは、クロアがいてくれたおかげなんです、って。それに、それだけじゃなくて、メタファリカだって、そうなんだって」
 ルカの表情が僅かに陰る。
「だって、クロアがいなかったら、私達はメタファリカを紡げなかった。クロアが頑張ってくれたから、私達はあの創造詩を謳うことができた。それを、もっとみんなにも知って欲しくて」
「ルカ……」
「もちろんクロアだけじゃない。レグリス隊長、アマリエ、ココナちゃん、ジャクリさんや瞬ちゃんやフレリア様、タルガーナやチェスターさん、アルフマン総統、大鐘堂と神聖政府軍の人達、I.P.D.のみんな――あのメタファリカは、ここに生きてるみんなの願いと力で紡いだものだよ。でも、私やクローシェ様を一番近くで、一番に支えてくれたのはクロアだった。だか――」
 何だかもう聞いていられなくて、居ても立ってもいられずに、ただ体が動くのに任せる。
 持っていた荷物をそっと地面に落として、大股で歩み寄ったルカの手から花束を抜き取ってやはり地面に落としながら――大陸を紡ぐという大それた偉業を成し遂げた、その小さな体を腕の中に閉じ込めた。
「……ありがとう、ルカ」
 何故か掠れてしまった声でそう告げると、ルカの手が背中へ回る。
「ううん」
 自ら顔を胸に押し付けたらしく、返ってきたルカの声は籠もりがちだった。
「……えへ、やっぱり言えば良かったな。大騒ぎになっても」
 抱き締めたまま、こつ、とルカの頭に顎を当てる。
「いい。ルカがそう思ってくれてるだけで、十分だ」
「でも」
「いいんだ。それに、メタファリカは俺の夢だった。……だから俺は、自分の夢のために頑張ったにすぎない」
 結果として、夢は叶ったのだ。
 そう、ただ――自分の手で叶えられなかっただけで。
 護りたいと強く想い――夢の結果をもたらしてあげたいと願ったその少女当人に、叶えてもらっただけで。
「それでも、クロアがいてくれて良かったことに、変わりはないよ。クロアがいなかったら、今の私はいないんだもん。私がいなかったら、メタファリカは紡げなくて、クロアの夢も叶わなかった。……ね、クロアがいなかったら、ダメだったんだよ」

 ――ああ、目眩がする。

 ルカ、と口にするのがやっとだった。
 胸をいっぱいにした何かは喉元あたりまで占拠してしまったようで、妙に息苦しい。
 かき抱いた腕に力を込めすぎたらしく、ルカの苦しげな声が耳に届く。努力して腕を緩めたけれど、しばらくこの体を――存在を、手放す気にはなれなかった。







 例によってクロアを甘やかしたかっただけだったすいませんごめんなさい色々夢見がちにも程があるのは自覚してる! あと微妙にオチてないというかオチが毎度代わり映えしないのは気のせいということに!
 それにしてもヒュムノス難しいよママン……。添削してくれた某さんマジありがとう感謝ー!

(2008/04/13 up)

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