「ん、ぅ……――!」
 息苦しさと強引な生々しい感触に、薄くなっていく意識をどうにか引き止めて、解放の瞬間に全力をこめた。
 力の入らない両腕を突っ張って、堅固な檻から自分を引き剥がす。
「はぁっ、は……っげほ、こほげほ」
 たたらを踏みながら二、三歩後退して、不足物を補う。勢いよく吸い込んだ空気は形もないはずなのに喉に絡まり、ろくに酸素を摂取できないまま咳き込んだ。
「大丈夫か、悠里」
 尾蹄骨に響くテノールが近づいてくる。
 反射的に顔を上げて相手の顔を視認し、アタシは慌てて体を動かした。
「だ、大丈夫ですっ! ぜんぜん!」
 裏返りかけた声を張り上げ、さらに二歩下がる。腰は引き気味に、両手を前に突き出す形で、「何でもないんです」を表情から伝えるべくひきつった笑顔を浮かべて。
「……」
 一応こちらの意図は伝わったらしく、相手はそこで足を止めてくれた。
 ただ、その表情はどうにも――捨て犬じみた端正な顔がじっと自分を見つめていたり、してくれて。
(こ……これじゃまるでアタシが悪いことしてるみたいじゃないのーっ!)
 逃げ出したいのに、無言の視線攻撃は容赦なくアタシを動けなくする。視線を外すことすらままならない。
(ううううう……)

 逃げられるわけが、ない。

 抵抗むなしくそれを悟ってしまったアタシは、覚悟を決めて口を開いた。
「あ、アタシ、別にその……先生にキスされるのが嫌とかそういうんじゃなくてっ」
 なら何故? と、非難めいた視線が問い掛けてくる。
 頼むからまばたきくらいして欲しい。心の奥まで見通されているような気分になる。それはとてもむずがゆくて、恥ずかしくて――ああやっぱり逃げ出したい。
「中身は確かにアタシだけど、体は海里で、えっとだから実際にキスされてるのはアタシじゃなくて海里の体なわけでっ」
 先生が閉じていた口を開きかける。
 それに気付いたアタシは、未だ頭の中でまとまりきらない言い訳を必死でカタチにして、一気に声にした。

「アタシは姉として、海里にはキレイな体でいて欲しいんですっ!!」

 ぜーはーと肩で息をして――ふと、違和感を覚える。
 何か静かだ。
 でも、耳にわんわんと何かが響いてる。
 それが残響じみた弟の声だと思い当たったのは考え始めて三秒後。どうやらアタシの青年の主張は結構な音量になっていた、ようで。
 わきおこる嫌な予感にそろりそろりと、あたりを見回す。
 時間的に人通りは少なくなっているものの、駅前通りに人っ子一人いないということはありえない。遠巻きに何事かと様子を伺う人影をいくつか確認できた。
 それから、自分の体が弟のものであること、先ほどのセリフがそれに全く見合わないことにもようやく気付けて、何もかもを忘れて本気で逃げ出したくなった。羞恥プレイにも程ってものがある。
(まあ何にしても……確実に、逃げられそうにないんだけど)
 その原因は、先ほどから逸らされることなく、自分から2メートルほど先にある瞳。恨みがましく目線をやると、ふっ、とその碧玉が和らいだ。
 瞬間アタシの心臓が――まるで弱点でも突かれたかのように――どきり、とする。
「お前は弟思いなのだな、本当に」
「あ、当たり前です。世界でたった一人の弟なんですから」
 それは間違いなく本音なのだ。
 ……なのだが、その裏にBLの野心が秘められていることは秘密で。
(うう、胸を張って断言できないだけにますます視線が痛い……)
 それだってのに、
「……そうだな。すまない。自分の感情を抑えられず、海里に悪いことをしてしまった」
 あっさりと、本当に申し訳なさそうに言われる始末。
 つられてほだされそうになるのをぐっとこらえて、アタシはクゲンてやつを返してみる。
「あ、だからって海里に謝ったりとか、とにかく言っちゃダメですからね先生! こんなこと知ったらあの子に何て言われるか」
 悠ちゃん、僕の体で変なことしないでよね――弟の声が脳裏に甦る。
 本当に自分の出来心でのことならともかく、彼にとって先生である人からそんなことをされたとなれば――彼の葛藤はいかなるものか。
 以前の自分ならばやったじゃない美青年から強引なキス(しかもディープ!)だなんて儲けものよ!!なんて胸躍らせていただろうけれど。
 こうして眼前の相手への想いを確信した今となっては、はっきり言って複雑だ。
 それに、何より。
(そりゃあBLとしてものすごいオイシイわよ。でもこれは……アタシの幸せを願ってくれた海里の体なんだもの)
 心優しい弟を大事にしたいという思いと。
 憎からず思っている相手は自分を見てくれているのに――けれど体は自分ではないもどかしさ。
 その二つから派生する、奇妙な嫉妬じみた感情。
 一言では言い表せない気持ちがぐるぐると頭を駆け巡る。
「それに……アタシ、まだ何も言ってないのに」
「え?」
 無駄な抵抗と知りながら――真っ直ぐな先生の視線だけでもと、顔を俯かせて逃げてみた。
 けれどそれはちくちくと肌に突き刺さってきて、気休めくらいにしかならないとちいさくため息をついて。
「アタシ、アタシが先生のこと、どう……思ってるかとか何も。言ってないのに」
 しばしの沈黙。
 肌は未だに先生の瞳が向けられたままなのを感じ取っていて、その顔がどんな風になっているのか、何より自分の表情を見られたくなくて、アタシは顔を上げられずゆっくりと流れる時間に耐えた。
「……悠里」
 コツ、と足音。
 それでも視線は地面に向けたまま、服の裾をぎゅっと握った。
 怒られる直前に漂う、あのぴりぴりした空気。アタシを呼ぶ声にはそれが感じられたから。
 コツ。
 視界に革靴が入ってきた。顔を上げたら目の前に居るのだろう。だから、上げない。
 すい、と空気が動く気配がした。
(――怒られる!)
 そう思った瞬間身を硬くし、降ってくるであろう怒声に身構えて――
「……っ」
 そろそろと触れてきた手が左の頬を包む。びくり、アタシの体はやたら大げさに震える。
 やんわりとした力が、こちらの首を上向かせていく。戸惑ったアタシの目に映ったのは、ほんの少し意地の悪そうに微笑んだ先生の顔。
「私はてっきり、さっきのが答えだと思っていたが……違ったのか?」
「ぇ……」
 困惑と混乱の中、一瞬の思考。
「――っ!!」
 ぼん、と頭の血が上ったのがわかった。
 追い打ちをかけるように近距離で響く、人をナチュラルに酔わせるような声。
 そして凶悪なまでの人の悪そうな、人をからかって楽しんでいる――無論そこには、確固たる思いが見え隠れしている――瞳。
「あ、あれは……っ」
 しどろもどろに言い訳をしようとした途端、先刻の感触とか息遣いとか様々な情報が脳裏に蘇ってきた。ヘビーローテーションでリピートし続けるそれに、言語中枢がまともに機能しない。
(だってあれは先生があんなこといきなりするからそれにアタシだいたいファーストキスであんなディープなのなんかしたことなんかないんだからそりゃBLでそういう知識はあるわよあるけどいざ自分がそうなったらどうすればいいのかとかわかるわけないじゃない頭がまっしろになっちゃったんだもの!!)
 わけがわからなくなりつつ心中で悲鳴を上げていると、それが顔に出たのか、形のいい唇がゆるく歪んだ。
「ならば言ってもらおうか、悠里。聞こう。――お前は私のことをどう思っているのか」
「う……」
 面と向かって、しかもお互いの顔の距離が三十センチほどしかない状態で。
 にこりと極上の笑みを突きつけてきた相手は、いつの間にかアタシを彼の腕という檻に閉じ込めようとしていた。
 咄嗟に動いた両手がたす、と相手の胸を押さえる。
 動きが止まり、見下ろす瞳を眼鏡越しに受け止めて。

「……ずるい」

 一言。
 反論できたのは、そんなたった一言だけで。

「……わかってて聞いてるんでしょ、先生」

 自分の両手越し、予想以上に逞しい胸板へ頭を預けて。
 アタシはいともあっさり根負けしてしまったのだ。





 とりあえず学園に戻ろうということになった。
 先生は家まで送ろうと言ってくれたけど、残してきた海里がどうしたかもわからない上、今のアタシは家の鍵を持ってない。
 後夜祭直前になって消えてしまった先生を探して、見つからないまま時間だけが過ぎて。意気消沈してしまったアタシは家に帰ると告げて学園を出た。
 ところがそのとき、荷物を持ってくるのをすっかり忘れていたのだ。
(……そんなにショックだったのかな、アタシ)
 とりあえず先生には、あまりに楽しくてうっかりしていたと説明したけれど。先生と後夜祭を過ごせなかったのがそんなにアレだったのかなんて、知られた日にはどうなることか。
「悠里」
「えっ、あ、はいっ!」
 ただの返事にどもってしまい、首だけ振り返った先生から訝しげな視線を向けられる。うう、早く顔の位置を戻してってば。
 ひきつった笑顔で受け流して先生が前を向いて、はーっと胸を撫で下ろした。
「すまないな。こんな遅くまで付き合わせる形になって」
「いえ、いいんです。その……嬉しかったし」
 最後の方は聞こえないように小声で言ったのに、数歩前を歩く相手はしっかりと聞き取ったらしい。肩越しにこちらを見てふ、と笑っている。
 一人だけ楽しそうなその笑みに、アタシの中でふつふつと何かが沸き起こった。
「それと先生? さっき言ったこと、ちゃんと守ってくださいよ?!」
「ああ。……お前が海里であるときは、何もしない」
「絶対ですからね!」
 ムキになって念押しするアタシに、先生は面白そうな口調で言った。
「だが、裏を返せばそれは、お前が体も悠里であるときは、何をしてもいいということになるな?」
「そっ――」
 こちらが言葉に詰まったのと同時、先生が足を止めた。勢いを殺せず一歩遅れて自分も止まる。
 ゆっくりと振り向いて視線が合って、一歩だけ縮まった距離にしまったと思うがもう遅い。
 逃げられない瞳に捕らわれたまま、アタシはとにかく反論した。
「……っんなの、だいたい先生は教師なのに、生徒にそんなことしていいと思ってるんですか?!」
「それは学園内での話だろう」
 必死の抗弁をさらりと流して、ついでに一歩を詰めてきて。
「まあ確かに、この国では犯罪行為に抵触するな。学生のお前を相手にすれば、つまり未成年に手を出すということになる。……だが」
 そしてとても自然な動作で、先生はこちらの左手を取った。こちらも自然、何をされるのかと左手へ視線が移る。
 先生の大きな手は、アタシのそれを軽く握りこんだかと思うと口元へ持って行き――
「……!」
 思わず身を引きかけて、先生の動きも止まる。それで、つい上げてしまった視線がばっちり合った。
 アタシは何も悪いことはしてないし、むしろ良くないことをしてるのは先生で――なのに、気分はまるでいたずらを見つかった子供。絶対無理だろうけど、逃げるタイミングを計っているのがバレバレで。
 先生はそんなアタシを見て苦笑してから、
「これくらいなら問題はないだろう?」
 ダイレクトに体温を伝えられる手はゆっくりと下ろされて――優しく引っ張られる。

 ととん、と不規則な足音を立てたのは一回きり。
 後は二人の足音が微妙にズレて重なりながら、夜道に響いていった。





「あ、悠ちゃん!」
 暗がりにこちらの姿を認めたかと思うと、アタシ――の中に入った海里が駆け寄ってきた。
「ちゃんと会えたんだねジェイク先生と。心配してたんだよ」
 海里はちらりと先生を見上げて、それからじっとアタシに視線を合わせてきた。アタシもそれに視線で応える。
 目と目で通じ合う、そんな流行歌があったけど。今のあたしたちはまさしくそれだった。
「……良かったね、悠ちゃん」
「うん。ありがと、海里」
 言葉少なに現況を報告し終えたそのとき、おーい、と聞き覚えのある声がした。
 何だろうと全員で視線を向けると、ばたばたという足音が複数、近づいてくる。
「サード! お前どこ行ってたんだよったくこの大変なときに!」
「文句を言うのは後だ悟。サード、急いで来てくれ」
「どうした、何があった?」
 血相を変えてかけてきたのは自治会長の朗センパイとその右腕たる悟センパイだった。海里も何か思い出したように、表情を慌てさせている。
「寮、あのまんまじゃ寝られないだろ? それで飾り付けを片付けようとしてタテカン倒壊の下敷きになった奴とか、アンリが振舞ったワインぐらいで酔って暴走してる奴とか、とにかく俺たちだけじゃ手に負えない奴らが増殖してんだ」
「ちっ。あれほどハメは外しすぎるなと言っておいたというのに……!」
 苛立たしげに呟きながら、先生がばさりと上着を脱ぎ捨てる。地面に落ちようとするそれを、アタシ――じゃない、海里が慌てて受け止めた。
「行くぞ朗、悟! それから悠里、海里。お前達はもう帰りなさい。夜も遅い」
「え、でも……」
「いーっていーって、大丈夫だからさ」
 ひょい、と海里の手から先生の上着を抜き取ると、悟センパイがにいっ、と笑った。
「サードが来れば収束すっから。それに、飲んでる奴らが結構イッちまってる。お前らが入ってったら何されるかわかんねえよ」
「ひぇっ」
 それを聞くなり、海里が女の子ちっくに頭を抱える。
 ……これがアタシの体でなかったら、さぞかしクランチ内を煽りたてる原因になっただろうに。ああ何か微妙に惜しい気がっ。
「そういうことだ、二人とも。今日は大変だったろう。ゆっくり休むといい」
 朗センパイがそう付け加えて、アタシはふと先生を見た。
 当たり前のように合った視線は雄弁で――言葉はなくただうん、と頷くのみ。アタシは勝手に緩む頬を止める気にもならなくて、素直に笑顔を返した。
「じゃあ、僕たちは先に帰ります。お疲れ様でした――ってのも何か変ですけど」
「はは、確かに最後の大仕事が残ってるからなあ……ま、そっちはお疲れさん」
「気をつけて帰るように」
 最後だけは教師らしいセリフで締めくくって、先生とセンパイたちはトンチキの館と化したクランチへと駆けて行った。
「……帰ろうか、海里」
「うん」





 てくてくと二人で歩く帰り道。
 二人で登校するのは毎日であっても、こうして二人で帰ることはあまりない。アタシは郁美と一緒が多いし、海里は学生会で夕方すぎまで学園に居るし――まあ入れ替わってからは結構一緒のときもあったけど、今日がいつもと違う日なんだってことを再認させるには十分で。
 祭りの後の奇妙なテンションも手伝ってか、アタシたちは妙に高揚していた。今なら何でも素直に話してしまいそう――数日前の夜みたいに。
「ねえ、悠ちゃん」
「ん?」
「良かったね」
「……うん」
 へへ、と照れ隠しで笑ってから、ぽつりと呟く。
「ありがとね、海里」
「別に僕は何もしてないよ。全部、悠ちゃんが自分で掴んだことなんだから」
 それからぽつりと、でもちょっと寂しいかな、なんて言ってくる。
 愛すべき弟の頭をぐりぐりかき回してやりながら、アタシは照れ隠しに声を大きめにして言いつけた。
「じゃあ次は海里の番ね。気合入れなさいよ」
「え?」
「アンタ言ったでしょ? アタシにこそ幸せになってもらいたいって。こうしてアタシはさっさと幸せになったんだから、もうアンタは何も気兼ねすることなく自分の幸せを追求していいのよ」
「悠ちゃん……」
「それに、一足先にゴールしちゃったんだし、今度はアタシがアンタの面倒見るわよ! 任せときなさい!」
 どん、と胸を叩いて――勢いをつけすぎてひとしきりむせる。
 苦笑と共に背中をさすられつつ、アタシは不敵な笑みを海里に向けた。
「人生の先輩として、アンタのたった一人の姉として、アンタが幸せになるのを見届けてあげるんだから。頑張りなさいよ!」
「……うん。頑張るよ、僕」

 そうして二人、道端にも関わらず大声でえいえいおーと拳を振り上げ気合を入れた。
 明日から始まるはずの、この上ない幸せが含有された日々に胸躍らせながら。






 とりあえずPC版で全員のベストEDクリアしたその日に寝る間も惜しんで書き付けてましたあまりの勿体無さに(ぉ
 だって諏訪部でエロ声で乙女ってろくにないじゃん! ここは普通に乙女萌えしときたいじゃん!(痛) つーかぶっちゃけ声質カタナ@ガドガード似なわけですよこら勿体無いにも程が……!!(ハイハイ)

 ……不純な動機で二次創作書いてすみません……
 いやジェイク先生は好きですよ本当に(ますます薄れる説得力)

 本当はコレ誰もわからんだろうから封印しておこうと思ってたのですが、PS2版出るし予約しちゃったし(……)もう悔しいので出してみました。ひたすら自己満足ばんざーい(虚)
 ちなみにこの話の悠里は、クランチ前で悲嘆に暮れる先生を説得してた(ときの性格の)悠里(in海里)ってことでひとつ。
 イベント時でないと乙女ゲー主人公っぽくないって本当どうなのこの娘(笑)

(2004/09/05 up)

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