買出しのつもりで街に出たのだがめぼしいものは特になく――唯一、露店で買ったりんご二つは歩きながらたいらげて――宿に戻る、その途中。

「あー」

 隣を歩いていたサユリがぱたぱたと駆け出した。数メートル先で立ち止まるとしゃがみこみ、何やらしきりに手を動かしている。
 狭めていた歩幅を元に戻して近づいてみると、サユリの目の前では首輪のない犬が嬉しそうに鼻を鳴らしていた。
「よしよし……」
 茶色の毛並みを撫で続けるサユリの手を、その犬はべろりと舐めた――親愛の表現なのだろう。サユリも小さく歓声をあげて幼い顔をめいっぱいほころばせている。
「このコ、ノラなのかな」
 確かに首輪はない。けれどサユリの愛撫を受ける毛並みは艶やかで、絡まったりもしていない。確かに多少薄汚れてはいるのだが、染み着くほどの年期は感じられなかった。体も骨ばった様子はなく、肉付きも申し分ない。
 どちらかと判断するならば、こいつは人の手を借りて生きている――弱肉強食のこの世界においてはある意味、勝者ではある――そう思えた。
 無論断言はできないが。主人から捨てられた直後、という可能性もないわけではない。
「カタナ」
 両手を量の多い毛の中に紛れさせたまま、サユリはすぐ横で突っ立っているこちらを振り返った。ただでさえ大きい身長差がさらに拡張されて、サユリの首がめいっぱい上向く形になる。
「ね、このコもいっしょにつれ」
「ダメだ」
 続く言葉を躊躇なく遮った。笑みに彩られていたサユリの表情が一転して膨れっ面になる。
 ――つと、脳裏に苦々しいものが甦る。
 今と同じような話題に否定的な結論を出して、丸一日帰ってこなかったサユリ。
 雨の降りしきる中、小動物を抱えて飛び出して行った小さな体。
 どうせすぐに諦めて、どこかに帰るだろうと思った。それが自分のねぐらか彼女の家かはわからなかったが――そのときは、それはどうでもいいことだったから――また翌日にはいつものように、ふらりと姿を見せるに違いない。そう思っていた。
 だから、まさかあの雨の中を一晩中ふらついていようなどとは考えもしなかったのだ。
 いじわる!と叫んで走り去ったのも、きっとすぐ諦めて「おねがい」に来ると思ってのことで。
 よくよく考えれば、サユリは顔に似合わず頑固な性格をしていることに気付けたかもしれない。
 だがあの時の自分にそれを理解しろというのは少々困難なことに思えた。何せ己の気持ちすらわかっていなかったのだから。
「でも、このコもひとりじゃかわいそう」
 サユリはなおも食い下がる。
 まだ一人――否、一匹か――だと決まったわけではない。軽くため息をつく。
「汽車に乗る時、そいつがいると客車に乗れない」
「それでもいいからっ」
 ね?と答えもしない犬に同意を求めるサユリは、一歩も引き下がるつもりはないようだった。
 どうしたものか、もう一度嘆息しかけて――遠くで何か声が聞こえた。そして、ワン!と大きく一鳴き。
「あっ」
 突然の音量に身を竦ませたサユリの元から、一目散に駆け出していく茶色。
 やがてその先の曲がり角で姿を現した人物――サユリと同じくらいの少女を認めるなり、奴はスピードを上げ、けたたましく吠えながら細い体に飛びついた。少女の方も歓声をあげてそれを抱き止める。
 サユリは無言でそれを見つめている。さり気なく立ち位置をずらしてみたが、先の跳ねた金髪が横顔を隠していて、表情はわからない。
 やがて少女と犬は、元来た道を戻っていった。
 ぽつりと、サユリが言う。
「ひとりじゃなかったんだね、あのコ」
「……ああ」
 しばらくサユリはその場から動こうとしなかった。
 行くぞと声をかけるべきか迷ってしばし、結局名前だけを呼ぶ。
「うん」
 普段の調子で返事をして、それからもう少しだけ間を置いて、ようやくサユリは振り向いた。ゆっくりと、何かを噛み締めるように。
 そうして、
「あのコはサユリとおんなじだから、だいじょうぶだね」
 そんなことを言って、サユリは笑った。
「サユリ。……行くぞ」
「うん」
 差し出した手の、親指以外の四本をきゅっと握られて――二人で再び歩き出す。





「あっ」
「どうした」
 先ほどの一人と一匹が消えていった角を素通りしたところで、突然サユリが声をあげた。
「あのコたち、どうしてるかな」
「あのコ……たち?」
 複数形になった指示語を疑問系で復唱すると、すぐに答えが返ってきた。
「ネコ。カタナのとこでかってたコたち。ちゃんとにげたのかな……」
 サユリの表情が再び曇った。
 ネコと聞いて、こうるさい五匹の小動物を思い出す――またあの雨の日か。
 彼女と居るうちで、あまり歓迎のできない記憶を払いながら、繋がっていた右手をゆるくほどいた。すぐに小さな手を握りこむ。強くしすぎないように、けれどしっかりと。
「親がいただろう。なら大丈夫じゃないのか」
「そうかな……」
 曇り顔は晴れることなく、その声まで沈みかけている。
 慎重に言葉を選んで伝えていく。あの日は過ぎたことで、もう繰り返されることはない。無意味な焦燥を持ち出した自分に言い聞かせながら。
「あの親猫が時々出入りしてたのは、お前が連れてきたからじゃなかっただろう」
「うん。きがついたらきてた」
「――なら、その親がどうにかしてるさ」
 だから何の心配もない。
 やはり自分に言い聞かせるように、続く言葉を飲み込んだ。
「そっか……そうだね、きっと」
 サユリの声色が心持ち高くなる。
 きゅ、とサユリの手が握り返してきた。小さな力であるけれど、しっかりと。

「カタナ、あしたはどこいくの?」
「さあな……どこでもいいさ」
(おまえと一緒なら、どこだって構わない)
 そう、心中で続けた言葉に呼応するように、サユリは笑って――
「いっしょにいこうね、カタナ」
「ああ」



 ――あの雨の夜の思いが、舞い戻ってこなければいい。
 いつか必ずやってくる絶対の日が、とてつもなく遠い未来だといい。

 そう祈りながら、繋いだてのひらの温もりを、心の奥に閉じ込めた。






 なんか唐突にカタサユが降臨したので文字に起こしてみたらなんかよくわからなく。

(2004/08/01 up)

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