――久しぶりに、見た。

 起き上がらせた半身の、肩あたりからぐったり沈み込むような倦怠感。
 ともすれば小刻みに震えてしまいそうなてのひらに瞬間的に力をこめて、強く握り締める。
 しばらくしてそれを解いて、開いて閉じてを数回繰り返し、ようやく震えないことを確かめた。
 すうと息を吸い込んで、大きく吐き出す。
 自然、閉じてしまった瞼を押し開けて、そこに映るものが見慣れた自分の――自分にあてがわれた――部屋なのだと、ひどく当然のことを理解して納得し、まっすぐ顔を上げる。

 夢見の悪さは折り紙つき。
 たぶん一生このままなんだろうな、という確信めいた予感がある。
 けれどそれを、嫌だと思う資格は自分にはない。嫌だと感じていない、と言ったら嘘にはなるけれど。

 こんなものが償いになるのかといえば、きっとそうではない。
 だから、嫌だとは言えない。

 ――償い以前のそれに対して嫌などと言っていたら、もう償う資格すらないのだろうと、そう思う。



*****



 からからになった喉にコップ一杯の水を流し込む。
 心地としては落ち着いたが、ベッドへ即座に逆戻りする気にはなれなかった。できればもう少し、この混沌とした思考を落ち着けたい。
 それにこのまま眠ったらきっと、混沌そのものな夢をもう一度見ることになるだろうし。

 とりあえず外の空気に当たることにした。
 なるべく音を立てないようにして玄関からテラスに出る。夢の内容とは対極な、風一つない穏やかな夜がそこにある。
 少しくたびれた木の手すりに両手を置いてみて初めて、自分の体が熱を持っていることに気付いた。冷え冷えとした木目に吸い取ってもらえればと、そこに軽く体重をかけておく。
 久方ぶりの感覚に、脳も体も興奮しているのだろう。
 もっと明確な言葉で表すなら、恐怖とか怯えとか、そういった類の支配から逃れようと必死なのだ。
「……」
 夜の街並みはひどく静かすぎた。
 もちろん無音ではない。
 だがまるで――生き物の気配がしないような、そんな錯覚を覚えさせるほどに、
「……っ」

 ――否、皆が死んだようにぐっすりと眠っている、それだけだ。

 頭を振って、おかしな方向に行きかけた思考を霧散させる。これだから駄目なんだ、と自分を叱咤する。
 現実を見ろ。幻想にも幻影にも惑わされるな。
 信じていいのは現実だけであり、償うことができるのもまた、現実でしかありえないのだから。

 そうしてため息じみた呼気を吐き出したそのとき、紛れもない現実に変化が訪れた。
 最小まで抑えられたドアの開閉音が耳に届く。
 玄関越しの気配に気付けなかったとは、よほど非現実に足を突っ込んでいたらしい。
「ルーク」
 小さく、けれどはっきりとした発音に名を呼ばれ、体ごと向き直る。
 そのときには、自省と自嘲からくる笑みを口元に貼り付けることに成功していて、そこだけは自分を褒めてやりたい気持ちになった。



*****



「どうかしたの」
「ちょっと、目が覚めてさ。喉渇いてたんで水飲んだら、今度は目が冴えちまって」
 それで外の空気でも吸おうと思って。
 言い訳がましく付け足している間に、歩み寄ってきたティアに隣へ並ばれた。
 ふわりと動いた空気が鼻先をくすぐる。かすかな、石鹸とかそういう系のいい香りがした。
「……悪いな、起こしたみたいで」
「違うわ。私も喉が渇いてキッチンに行ったの。部屋に戻ろうとしたら、外に人の気配がしたから……泥棒かと思って」
 もし、近づくティアの気配に気付いて下手に隠れるような真似でもしていたら――杖か何かで一撃やられていたのかもしれない。
(まあ……それはそれで、「目を覚ませた」かもしんねぇけど)
 どちらにしろ、ティアの眠りを妨げたことには違いないようだった。
「ごめん」
「いいのよ別に。勝手に勘違いしたのは私なんだし」
 そうして軽く口元を緩めたあと、
「嫌な夢でも見たの?」
 こちらの方は一切見ることなく、ティアは言った。
 付き合いの長さと深さからして今更隠し事はできない。
 それどころか、いつか交わした「隠し事はしない」約束は今もって継続中なのだった。
「……ティアには何でもわかっちまうんだな」
 ティアは一度何かを言いかけた。けれど開いた口をゆっくり閉じると、そのまま沈黙で先を促してくる。
 しかし説明する気になれずに、こちらも押し黙る。
 やがてティアも回答を諦めたようだった。何となくだけれど、興味を失った――そんな雰囲気を、すぐ隣に感じたのだ。
 会話を途切れさせたまま、しばらく二人で突っ立っていた。
 ただ、時分的に喋り続けるのもどうかと思うし、他に話すことがあるなら昼間に時間を見つければいいのだし、別に気にはならない。
 ティアの登場で少しだけ思考も落ち着いた。別なものが騒ぎを起こしかけているのは、あえて無視しておいて。

 ――けれど、これでいいのか、とも思う。

 ティアという存在に助けられてばかりで。
 自分の考えで、自分が正しいと思ったことを、自分の力でやり遂げなければ、それは償いにはならないのではないか。
 「自分が幸せにならないこと」、が償いになるとは思っていない。
 けれどだからといって、安易に幸せに溺れてしまうのもまた、償いとは程遠いような、そんな気がしてならないのだ。

 手すりに押し付けていたはずの手は、いつの間にか拳になっていた。
 何かに耐えるように、爪の先をてのひらに食い込ませるほど、きつくきつく握り込んで。

 ――それに、そっと触れてくるものがある。

 ゆるく重ねられた手はひどく温かい。
 まるで夢の中にいるような、ふわふわした心地。
「震えてるわ」
 反射的にそちらを向いてみれば、真っ直ぐな瞳に射抜かれた。
 もう逃げられない。逸らすことも敵わない。
 理由なき敵前逃亡を、ティアは決して許したりしなかった。今までも、そしてきっと、これからもずっと。
「……あなたが」
 静かに響く、透き通った声。
 とても大好きなそれは、心地良く自分へと浸透する。
「償いとして、自分に罰を課すことは止めない。……でも、やるのであれば、人知れずではなくて、ちゃんと人に見えるところでして頂戴」
 冷や水を浴びせるような、冷静な言葉。
 それはいつだって、暗澹とした場所へ足を向けた自分を引き戻してくれた。
「それに、あなたが一人で勝手に、無意味に傷つくのを知って、喜ぶような人がいると思うの?」
 目で――主張された。
 少なくとも私はその一人だと、ティアの目はそう訴えてきている。
「そう……だな」
 その解釈が独り善がりな自惚れでないことを祈りつつ。
「……ごめん」
 一生懸命に普通の笑みを浮かべようとして、どうしても上手くいかない。
 下手くそな、弱々しいばかりの笑顔をかろうじて向ける。
 ただそれでも、声だけははっきりと、この意志を伝えた。
「ありがとう、ティア」
 言葉を言い終える、肝心の彼女の名前のあたりで、とうとう声が震えてしまった。
 たぶんそれに気付いたんだろう、ティアの表情がわずかに険しくなって、やばい、そう思って。
 咄嗟に、両腕を伸ばして捕まえて引き寄せて、自分の胸に閉じ込めてしまった。
(ってうわ、何してんだ俺っ……)
 けれど一度手にしてしまった温もりとか香りとか柔らかさとかは、その程度の後悔では手放すきっかけにもならなかった。
 とりあえず位置と力加減をそのままキープする。
 ティアはこれといった反抗を見せずに、ただされるがままになってくれていた。
 それは、自分を受容してくれたのかもしれなかったし、――怒りのピークを通り越して、呆れているのかもしれなかった。
(……と、とにかく)
 首の位置をずらし、擦り寄るようにして、耳元に唇を寄せる。
 そうして寄せたはいいが、何をどう言おうか迷う。
 混乱した頭は、ひどく単純で、全ての迷いに対する至極簡潔な言葉を、回答としてはじき出した。

「……ごめん」

 なるべく小声にしようとしたら、思いっきり掠れてまともな発音にならなかった。
 かといって繰り返すのも微妙な気がして、そのまま耳たぶに唇が触れかける位置まで寄ったところで、衣擦れの気配がした。
 ティアの腕がそっと動いて、こちらの背中へ周っていく。
 細い指先――そして手のひらが、どこかぎこちなく、自分の背中に密着した。
 はたして、彼女は呟く。

「……それは、誰に対する言葉なの」

 鋭く、ぴしりと。

 容赦なく冷水、いや、氷水あたりを浴びせられた気分だった。
 やがて、瞬間的に強張った体から力が抜けていく。やましいものから、後ろ向きで破滅的なやつまで――その思考の全てを道連れにして。
 全部が抜けきったあたりで、苦笑気味に弁明した。
「今のは、ティアに……かな」
「私に、二回も言わないといけないようなことをしたの?」
(……ぐ)
 痛いところを突いて来た。
 口だけの人間にはならないようにと、「はい」も「ごめん」もその都度一回ずつと約束してたんだった。
「じゃあ、その……ティアに、許可なく抱きついたから」
 しばらく間を置いてから、ばか、とお決まりの言葉が返ってくる。
 それにちょっとだけ安心して、本当は言わずにおこうと思っていたのに、つい口にしてしまった。
「残りは、心の中で言っておいた」
 腕の中のティアが顔をあげかけた。説明を求められているのだと理解して、続ける。
「ティアはここにいるから、口で言えば伝わる。でも、他の人は」
 そこまで言って、言葉を選びかねて、――結局口を閉じてしまった。

 他の人は、ここにはいないから。
 生きているのは極僅か。
 死んでしまった――死なせてしまった――殺してしまった――相手は数知れず。
 どちらにしても、心で唱えて届くのかは疑問でしかなかったけれど。

「そうね」

 ぽつりと言い切られたその言葉は、途切れた言葉の再開をやんわりと留めてくれた。



*****



 自分が先立つ形で室内に戻る。
 入ってすぐのリビングで足を止めて、すぐ後ろに居るティアを振り返った。
「……その、ありがとな。おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」
 本当はもう少し一緒に居たい。
 その気持ちをぐっと飲み込んで、去り行く背中から目を外す。
 それでも残留した名残惜しさを振り払うように、やや乱暴にソファへ腰を落とした。
「……ルーク?」
 ぼすんという音を聞きつけたのか、廊下の暗がりからティアが戻ってきていた。
 ちゃんと部屋に入るまで見届ければ良かった。遅すぎた後悔を噛み締めていると、寝ないつもりなのかと聞かれる。
「ん、まあ……眠くないし。それに、もう少ししたら日も昇るしさ」
「……そう」
「じゃあ、おやすみ。ティア」
 二度目の挨拶に、ティアの返答はなかった。
 無言のまま踵を返し、こつこつと遠ざかる足音。続いて蝶番のきしむ音。最後に、ばたんとそっけなく閉じられたドアの音。
(……呆れられた、かな)
 実際のところ、眠くないわけではないのだ。
 ただ、今布団にもぐって眠ったら、やっぱりそれなりに仄暗い夢を見てしまう気がする。少なくとも、自分の経験則はそう主張している。
「カッコわりぃ……」
 自分に言い聞かせるように呟いて、座り込んだソファにぐったりと寄り掛かかった。
 はー、と大きく息を吐き出してから、首を目いっぱい逸らすようにし、ソファの背に少し逆さま気味に頭を乗せる。
(……うぇ?)
 なんだ、いまの。
 逆さまの視界に、何か幻影が見えた。気がした。
 慌てて体を起こし、後ろを確認する。
「ティア……?」
 部屋に戻ったはずの彼女が、何かを手に歩み寄って来る。
 その動きをぽかんと目で追っていくと、最終的に自分のすぐ横に落ち着いた。
「はい」
 差し出されたのは毛布の片端だった。
 反射的にそれを手に取って、まじまじと見つめる。
 どこにでもある、何の変哲もない毛布だった。ちなみにこれと色違いのが自分の部屋にもある。だからこれは当然、ティアの部屋にあったものなのだろう。
 とりあえず意味がわからなくて顔を上げた。ふわりとした笑みを浮かべ、ティアが口を開く。
「朝方は冷えるわ」
「そっか、ありがとう。……ティア?」
「なに?」
 何故か毛布の半分を体にかけているティアに、一番の疑問をぶつけてみる。
「ティアは、寝るんじゃ……ないのか?」
「私も眠気が飛んでしまったから、起きていようと思って」
「……ごめん」
「あなたのせいじゃないわ。ほら、ちゃんとかけて」
「あ、ああ」
 慌てて毛布を引き寄せ――ティアはしっかりと毛布の半分を体に纏っていた――られないことに気付いて、仕方なく体を寄せる。
 互いの肩が触れるか触れないかのところを妥協点に座る位置を調整して、毛布で体を覆った。
 確かに温かい。特に、すぐ隣の柔らかい体が。
(……っ)
 妙に心臓がうるさくなってきた。視線が泳ぐ。首を回せない。特に、右とかに。
(ふ、不謹慎だろ、俺)
 そう自分を叱りつけていると、ひどく自然に、肩に柔らかい重みがかかった。
 見なくたってわかる。鼻腔をくすぐるいい香りと、目の端に映るさらりとした髪の毛。

 というか――よく考えたら動けなくないか、これ。

 頭を載せられている右肩は当然身動き不可だし、左手は動かせるけど何か微妙に届かない。
 たとえ届いてもおかしな体勢になるだけだし、そんくらいならいっそ倒して抱きしめた方が、
(いいに決まってるけどできるわけねーっつの! アホか俺!)
 ……まあ、とにかく。
 この体勢を保ちつつ動かせそうなのといったら、もう頭くらいしか思いつかない。
 それもこう、首を傾げるみたく、真横に曲げる感じに――軽く押しつけた頬がゆるくへこんだ。
(って、実践してどーすんだ俺!)
 けれど、頬にあたる細い髪の毛が、つるつるしていて心地いい。
 思わず頬擦りしかけるのを必死で自制する。
「お……重い、よな」
「平気よ。あなたこそ、重くない?」
「ぜ、全然。ちっとも」
 そう、とティアはどこか満足そうに呟いた。


 そこからぷっつり、会話が途切れて。
 何を言えばいいのかわからなかったし、何か言えば致命的にしくりそうな気もした。

 けれど何よりも、その沈黙は決して重苦しくなく、まるで半身浴で浸かってるお湯みたいな――そんな心地良さがあったから。

 だから、自分たちが次に口にするのはたぶん、朝の挨拶なんだろう。
 日が昇るまで、時間にしてあと一時間強。
 それぐらいならきっとたぶんおそらく耐え切れると信じて、触れ合う温もりを噛み締めるように、そうっと目を閉じた。






 ED後のルクティアを書くとどうしてこう毎回えろの導入みたくなるんだろうと頭を抱えつつ(……)
 必死でそのものにならないように頑張って回避。私頑張った! 頑張ったんだ! だからそんなかわいそうな人を見る目で見るな! うわーん!

 あ、さも当然のように同居してるっぽいのは気のせいです。むしろ仕様です。
 結局何が言いたかったのかわからなくなってるのはもう気にしないことに(しようよそこは)

 しかし私がやらかすルクティアは悪夢ねたしかないのか(……)
 俺は悪くn(以下略)とかうっかり叫びたいところですがいや本当すいませんごめんなさいワンパの帝王で……(かくり)

(2006/02/12 up)(※日記より移動)

戻る