不格好に大口を開けてぜーはーと大仰に息を吸って吐く。
「げほげほっ」
 がらがらした喉が震えて痛みが走る。だが咳をしないことには呼吸もままならないので、痛みを堪えて続けた。
「……ぜぇっ、は……っだー! くそっ」
「ほら、大人しくしてろって」
「あれだけ咳き込んでおきながらまだ叫べるようですし、これなら心配いらないでしょう」
 などと言いつつも、マスクを外す様子は欠片もない男を半眼で睨む。
 キラリと意味もなく光る眼鏡とマスク(それも手術用)は、その男の相貌にやたらと似合っていて、ルークは体調以外の理由で背筋が寒くなった気がした。
「とにかく温かくして寝とけ。あとで食べやすいもんでも作ってきてやるから」
「……変なもん入れんなよな。刻んでもわかんだぞ」
「へいへい、わかってるって」
 そう言ってガイはルークの額に置かれた濡れタオルをぽんと叩いて、じゃあなルーク、とジェイドと共に部屋から出て行った。
「……あー……」
 目を閉じてみたら暗闇の世界がぐるぐると回り出したので、ルークは仕方なく目を開いた。そもそも眠気がない。
 眠らなければ治らないということもわかってはいるのだが、呼吸は苦しいし頭はぼんやりとしているし、おまけに目を閉じたら世界が回るわで、結局起きているしかなかった。
「この年で風邪って、……ガキでもねーのに、情けねー……」
 既に喉は嗄れていて掠れた声しか出ない。だがあえてルークは思ったことを声に出していた。
 どのくらい症状が酷くなったのかを確かめたかったのもあったが、自棄気味に自分を追い込みたい気分にもなっていた。
 例の頭痛と比べたら楽なものではあった。かといってこの辛さが軽く感じられるかと言えば、それは全く別の話だ。苦しくて辛くてどうにかして欲しいがどうにもならないことに変わりはない。
 そうして関節がだるく鉛のように重い全身を呪いながら、ルークはふと古い記憶を思い出した。



 今から考えれば、まだ生まれて二年か三年ぐらいの頃である。確か酷く冷え込んだ日と、その翌日のこと。
 バチカルに霙が降り、雨に雪が交じったそれは空から降り注いで、屋敷から出られない自分にも制限なく堪能することができた。
 周りが止めるのも聞かず、それを体に受けて直に感じた。雨とは違う感触。けれど触れた瞬間溶けて雨と同じになってしまう。だから、それが水に変わる前の状態を目に焼き付けたくて、ただひたすら霙を体に受け続けた。
 冷え込んだ日にそんなことをすれば、当然――レプリカであろうとも――被験体よりも劣るとされるレプリカだからこそ、かもしれない――風邪だってひく。
 幼いルークに風邪が発症したその日は特別な日だった。不定期に姿を見せる彼の師匠がやってくる日だったのだ。
「ルーク様、起きてはなりません」
「いや、だ……! きょうは、せんせ……げほげほっ、が、くるひ、なんっ……だ、ぞ」
 庭師のくせに妙に力の強い老人に、強引にベッドへと押し戻される。抵抗しようにも体が重く、そもそも子供の力で大人に敵うはずもない。
 悔しさと苦しさのあまり泣き喚きたくなったが、癇癪を起こすだけの体力すら残っておらず、ルークは力の入らない手で不器用にシーツを掴むことしかできなかった。
 部屋の外が騒がしくなったのはその時だった。
 苦い薬しか出してくれない医者でも呼んできたのだろうかと、ルークは熱でぼんやりとしてきた頭で考えた。そんなのはごめんだと苦しいにも関わらずもそもそと布団の中へ頭を潜らせ、
「――ァン謡将、お待ちください!」
「なに、構わんよ。弟子の顔も見ずに帰るわけにもいかん」
 慌てて布団をはね除け体を起こし、部屋に入ってきた人物を嬉しさの余り呼ぼうとして――大きく咳き込んだ。
「ルーク、無理をするな」
「で、でも、師匠が来たんだかっ、げほごほっ、ら、剣のけい……っごぼごほ!」
「その体では木刀すら握れまい。誰でも不調のときはある。そのお前の心意気は買おう。だが、己の健康管理もできないようでは、剣の稽古を受ける資格はないぞ」
 力強く優しい手が、有無を言わさずルークを布団の中へと戻す。
 小さく咳を繰り返す彼の額へ、その大きな手のひらが触れた。実の両親にすらされたことのない――母親は看病をしたがったが、病弱な体ゆえ周囲から止められていた――行為に、ルークは強張っていた全身の力が抜けるのを感じていた。
「熱はそう高くはないようだな。大人しく休んでいればすぐに治るだろう」
「せんせ……俺、早く治す、から……そしたら、今日の分、も」
「いいだろう。私が次に来れるのは来週になる。もしそのときまでに全快していないようなら、その話は無かったことにする。いいな。しっかり治すことだ、ルーク」
「……はい!」
 ルークは掠れた声で、病状に苦しむ顔に抑えきれない喜びを滲ませて、こくりと頷いた。
 それから彼の師は、扉の近くで控えていた庭師と彼の教育係に一つ質問をした。
「厨房を借りることはできるか?」



(……そんで、薬作ってくれたんだよな。喉によく効くって……)
 それは喉の症状を大幅に改善し、随分と楽になったのを覚えている。その微妙な味すらも、まざまざと思い出せた。知らずルークは顔をしかめる。
(薬みたいにめちゃくちゃ苦いってほどでもなかったけど、美味くはなかったよな……)
 そもそも薬に美味を求める方が間違っている。
 あの頃のルークは今と比べたらとんでもなく我侭で、思ったことはすぐ口に出すし、嫌だと思ったら絶対に受け入れない、そんな子供――というか、幼子――だった。
 けれど、師匠が手ずから作ってきてくれたその薬を飲んだとき、彼はすぐさま「不味い」と不満を漏らしたものの、拒否することなく最後の一滴まで飲み干したのだ。
 それは彼なりの意地であったし、本来の心根に基づくものでもあった。
 ルークが初めて「気を遣う」ことを覚えたのは――両親でもなく、四六時中一緒にいる教育係でもなく――彼の師に対して、であった。
(……師匠)
 今は完全に敵対してしまったその人を思う。
 病に冒された自分の体がうまく動かせないことも加え、ルークは己の無力さに、静かに重く目を閉じた。



「ルーク」
 まどろみかけていた意識が、優しく透き通った声に反応して浮上する。
 ルークは視界に映った相手の名前を呼んだのだが、嗄れた喉が掠れた音を出すだけだった。咳き込んで喉の通りを良くしようとすると、無理はしないでとやんわり止められた。
「喉によく効く薬を作ってきたの。これを飲めば少しは楽になると思うから……体は起こせる?」
「あ、ああ……薬って、苦いのか?」
「そんな苦くはないと思うけれど、薬だから」
 手伝ってもらいながら半身を起こし、ルークは礼を言って相手から液体の入ったカップを受け取った。匂いをかいでみたが、鼻がつまっているせいでよくわからない。
 ルークは覚悟を決めると、なるべく味わったりしないように、一気に喉の奥へと流し込んだ。
 ごくり、と喉を鳴らしてから――ルークは思わず、空っぽになったカップを覗きこんだ。もちろん一滴だって残っていない。
 そうして顔を上げたルークは、口内に僅かに残る後味に、心配そうに己を窺っている彼女が一体誰であったか、改めて思い知った。
 彼女の名前はティア・グランツ。
 彼が師匠と仰いでいたその人の、実の妹だ。
「ティア、これ……」
「あなたには苦かったかしら。でも、本当によく効くのよ」
「……知ってる」
「え?」
 不思議そうに聞き返すティアに、ルークは己の発言がいわゆる失言の類であったと気付いた――というか、何故だかわからないがそういう風に思った。
 どこかばつの悪い思いをしながら答える。
「昔……俺が風邪ひいたとき、師匠がこれと同じのを作ってくれたことがあってさ」
「そう、だったの」
「なんか……懐かしいっつーか。まさかもう一度これが飲めるなんて思ってなかったっつーか……」
 急に重みを増したように思える場をつなごうとルークは必死で言葉を探したが、明らかに逆効果だった。それどころか、自分の発言に自分でヘコんですらいた。
 覆せない現実。
 無力な自分。
 何もこんなときに再認しなくてもいいものを。
「……私も、小さいときに兄さんから教えてもらったの。兄さんはユリアシティの家にはあまりいなかったから……自分が不在のときに喉を痛めたら、これを飲むようにって」
「そっか」
 結局、そのまましばらく沈黙が落ちた。
 ルークは黙ってしまったティアに何と言えばいいのかわからなかったし、そもそも誰かと会話したい気分でもなくなっていた。
 何もできないなら、いなくても同じ。
 いなくてもいいのに、存在してしまった自分。
 存在するからには、何かしなくちゃいけない――
 髪を切った時からずっと、頭の隅にこびりついた思考がループして止まらない。
「……あふ」
 沈黙を打ち破ったのは小さな欠伸だった。
 薬が効いてきて呼吸が楽になったおかげで、ルークに休息を強要する睡魔がやってきたのだ。
「休んだ方がいいわ、ルーク。ごめんなさい、長居をしてしまって」
「い、いいって。こっちこそ、その、……ごめん。それと、ありがとな、薬」
 ティアはゆるく笑って、ルークが体を倒すのを手伝った。しっかりと布団を首もとまで引き上げてやり、枕元に落ちていた濡れたタオルを手に取った。
 サイドテーブルの洗面器にタオルを浸し、ぎゅっと絞る。
「……ティア」
「なに?」
 首だけを向けると、ルークは天井を見たまま、ぼんやりした声で言った。
「治ったらさ、……薬の作り方、教えてくれよ」
「ええ。わかったわ」
「よし……約束だかんな」
 よほど眠いのか、語尾を口の中でもごもご言わせているルークの額へ、ティアはそっと絞ったタオルを置いた。
「つめてー……」
 うわごとのように呟いたルークの瞳が、すっと閉じる。
 その様にふっと笑みをこぼしそうになったティアは、次の瞬間、完全に意表を突かれた形でその言葉を受け取った。
「……これで……もしお前が風邪ひいたときは、俺が、作ってやれ……し……」
 ティアは数秒ほど呼吸をするのを忘れて、ルークの寝顔を見つめていた。
 眠っている。何かを言い返して起こすわけにはいかない。そもそもこの調子では起きはしないだろう。
 そのことを理解してからようやく、ティアは静かにベッドから離れた。そして、呟く。
「……ばかね。音律士が風邪をひくなんて、本来あってはならないことよ」
 喉を嗄らしてしまっては譜歌を使う音律士は何もできないに等しい。彼女が兄に薬の作り方を習ったのは、音律士になるよりずっと前の話だ。
「早く良くなって、ルーク」
 部屋の音素灯を落とし、ティアは部屋を出た。
 誰もいない廊下に出ると、静かに閉じた扉にそっともたれかかる。
(これからも私は風邪はひかないようにするし、ひくつもりもないけれど……気持ちだけはもらっておくわ)
 室内ではためらわれた重い吐息を、ゆっくりと吐き出す。
(あなたと同じで――もう、兄さんが私に作ってくれることはないと思うから)
 ティアはルーク以上に、現実の厳しさを感じ、受け入れていた。たとえ、感情での納得が追いついていなくとも。
 彼女は神託の盾騎士団の一員であり、その身分を手に入れる際、己が心を律する訓練も受けている。そうしなければ軍人は務まらない。
(だから、あの薬を飲むには自分で作るしかなかった……でも、あなたが、作ってくれるかもしれない)
 それは素直に嬉しいと、ティアは思った。
 ひどく複雑な思いが、その後ろに絡んでいたとしても。

 その思いとは――彼女の胸の中にある、もう二度と手にすることができない、「兄」という望郷だった。






 ルクティアで風邪ネタのつもりが気が付いたらジョージ兄さん一色になっていたのは何故だろう。
 初めてジョージ兄さんを書いたんですが、普段私がやらない(というかやれない)方向性の何かが垣間見えそうでビックリしました(……)
 書いてて改めて思ったけどジョージ兄さんは罪な人だなあ(笑)

 ルークにしてもティアにしてもジョージ兄さんが非常に大きな存在なのは間違いないので、機会があればその辺もっと掘り下げてみたいところ。
 とりあえず早く二周目やろうや私……(発売してもう一年経ったよ!)

(2006/12/18 up)

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