「ごちそうさまでした」
 紅茶を飲み干してほうっと息をついて、エステルの表情が幸せそうにふやけた。
 何度か見たことのある光景だけに、彼女がそうしている理由など分かり切っていて――しかし苦笑する他に返すものが見当たらず、ユーリは仕方なく以前と同じことを問うてみた。
「……どうした?」
「幸せを噛み締めているんです」
 そうして返ってきた答えは、彼の記憶の中にあるものと一字一句違わない。
 同じ会話を繰り返していることに彼女は気付いているだろうか。きっと気付いているだろう。気付いていて、だからこそ同じ言葉を返した。
 下らない言葉遊びだと言われればそれまでだったが、たとえ下らなくても、他愛のない言葉を交わし合うこの時間はわりと気に入っているのだ。
(……何やってんだか)
 今ここ――ハルルにあるエステルの別邸――には二人(と一匹)しか居ないため、軽く我に返った時に妙な気恥ずかしさが込み上げる。
 自己ツッコミよろしく独りごちたのは、つまるところ照れ隠しの一種だった。
「ふわーっとして、甘くって……でもしつこくなくて。本当に美味しかったです」
「はは、そりゃどうも」
「ケーキ屋さんを開いてもいいくらいですよ」
「愛想の悪い店員のおかげで売り上げは壊滅的ってか」
「なら、ユーリは厨房でケーキ作りに専念していてください。私が販売員をやりますから」
 「愛想の悪い」部分は否定しないのな、と思いつつ、ユーリは別のことを突っ込むことにする。
「知名度的にはケーキよりも販売員の方に軍配が上がりそうだな」
「もう、そんなことないです」
 揚げ足取りのような発言が続いたせいか、エステルは少し頬を膨らませている。
「ま、職に困ったら考えてみるよ」
「そうしてください」
 白旗代わりに軽く両手を挙げてみせ、ユーリは話題を打ち切った――つもりだったのだが。
「ああ、でも本当に美味しかったです。最近の中では一番好きかもしれないです」
「そうか?」
 またハードルが高くなったな。口には出さず、ユーリは心中でぼやく。
「なんというか、こう、食べると心が温かくなるというか……私もそんな絵本を描きたいです」
「もう描けてるだろ?」
「いいえ、まだまだです。そうだユーリ、心が温まるケーキと絵本――あ、もちろん私がそんな本を描けたらの話ですけど――、二つをセットにするのっていい案だと思いませんか?」
「なるほど、不良在庫処分でよくある抱き合わせ販売ってやつか。ああもちろん、処分されるのはケーキの方な」
「そういう夢のない言い方しないでください! 相乗効果を狙ってるんです」
 再び頬を膨らませたエステルは何気なくカップを持ち上げようとし、中身がないことに気付く。
 紅茶ポットが空なのを知っていたユーリが腰を浮かしかけるのを身振りで止め、それから口元に手をあてて真剣な表情になる。
 彼女のこの表情を、仕草を、そして場の流れを――ユーリは嫌と言うほど知っていた。
 今彼女は、妙案を考えている最中なのだ。ただし、「彼女にとっての」という前提付きで。
(……できれば、お手柔らかに頼みたいところだな)
 数秒後、ユーリと名前を呼ばれる。
 考える姿勢を解いて顔を上げたエステルと、正面から視線を合わせた。
「あの、今度描く絵本をイメージしたケーキとか、作れないでしょうか」
 まだその話が続いてたのか。
 もちろん心の中で呟くだけにして、ユーリはきっぱりと答えた。
「悪いけど、無理だな。俺はそういう細かいのは向いてないって」
 エステルの表情が沈んだのは一瞬だった。すぐに持ち直して、さらに食いついてくる。
「じゃあ逆に、ユーリがケーキを作って、私がそれを元に絵本を描くのはどうでしょうか! それなら、ユーリはいつも通りに作るだけでいいはずですよね?」
 両手を握りしめ、互いの間にあるテーブルがなければ詰め寄られてもおかしくはない。
 そんな予想以上の勢いにまたしても両手を挙げたくなる。
 だがこの話が打ち切られるのは、首を縦に振った時以外にないんじゃないだろうか――
「……そんなに抱き合わせ販売がしたいのか?」
「私はただ、ユーリの作るものを他の人にも食べてもらいたいなって思って……だって、今のところ、試食してるのは私だけなんですよね?」
「まあ、そうだな」
 ユーリは頷く。
 それは紛れもない真実であり、紛れもなく自分の意志でそうしたものだったから。
「私一人がこの味を一人占めするのは勿体ないです」
 ユーリはため息をついた。
 例によって心の中だけで、盛大に。
「……そのためにやってんだけどな」
「え?」
「いんや、なんでも」
 聞こえるように、けれど聞き取れないような音量で呟けば、狙い通りエステルは聞き返してきた。
 とりあえず即興の思惑がうまくいったことに僅かばかりの充足感を得て、仕方ないかとユーリは腹を括った。
「ま、気が向いたらな」
「はい!」
 軽く笑ってみせれば、相手は満面の笑みを返してきた。そのことには大いなる満足感を得る。
 ゲンキンなのは俺も一緒か――そろそろツッコミ役が欲しいところだと、ユーリは相棒が眠っているはずのテラスを見やった。イスに座ったままでは外からの風に揺れるカーテンしか見えなかったが。
「それじゃ、片付けますね」
 立ち上がったエステルがお盆を手に取る。ユーリも慌てて腰を上げた。
「おいおい、キッチンを使ったのは俺なんだから、俺がやるって」
「いいんです、ご馳走してもらったのは私なんですから、片付けぐらい私がやらないと」
 白く細い手が盆に食器を乗せていくのは止めずに、しかしその後の盆を奪い取るべく歩み寄る。
「キッチン使わせてもらっただけでなく、材料の三分の一ぐらいはここにあるのを使ったぞ」
「幸せな心地にしてくれる美味しいケーキが食べられたんです。おかげで創作意欲も湧きました。それに、新作開発中と聞いて食べてみたいって言ったのは私の方で、ユーリは忙しい中時間を作って材料を持ってわざわざ足を運んでくれたんじゃないですか」
 てきぱきと片付けつつも一気にまくしたてるエステルに、ユーリは返す言葉を見失った。否、喉まで出かかっていたのだが、強引に飲み込んだ。代わりに小さく息を吐き出す。
 今更、このお姫様が言い出したら聞かないことなどわかりきっている。
「……わかった。じゃあ分業」
 だから、ユーリにできるのは妥協案の提出ぐらいだった。
「エステルが皿を洗って、俺はそれを拭く。これでどうだ?」
 少し考えて、わかりましたとエステルが微笑んだ。



「それで最後か?」
「はい。お願いします」
 渡された皿を拭いて、横にある食器棚の中へと置いた。
 振り返るとシンクの泡を落とし終えたエステルが手の水を払っているところで、ユーリはその目の前へ、手にあるものをぶら下げた。
「使うか? って皿拭いたやつだけど」
「はい」
 苦笑しながらも快く受け取ったエステルは、手についた水滴を拭いてから、ユーリに差し出した。
「すみませんユーリ、そこに広げてかけておいてもらえます?」
「はいよ」
 エステルの示したタオル掛けに布を広げる。
 受け取った時に感じたものは、気のせいではないはずだ。
 それを確かめるために、ユーリは自分を待っている彼女の名前を呼んだ。
「エステル」
「はい」
「手」
「手? ……が、どうかしたんです?」
 出してとばかりにユーリは自身の手のひらを差し出した。軽く首を傾げながら、エステルもそれに従う。
 手のひらの上に重ねられたそれを、ユーリは遠慮なく握った。
「……あの、ユーリ?」
「冷たくないか、指」
「当たり前じゃないですか。さっきまで水を触ってたんですよ?」
「それにしたって冷えすぎだろ」
 ユーリは指先だけでなく手の甲まで揉むようにして触れ、自身の皮膚との温度差を測る。
 その滑らかな肌はひどく冷たいのに、けれどみずみずしさを伴い、まるで吸い付いてくるかのようで――何処かへ沈みそうになる意識を、エステルの声に引き戻される。
「私、冷え性なんです」
「そうなのか?」
「はい、多分……ですけれど。この前、ご近所の皆さんと手足が先端から冷えますよねってお話をしていたら、そう言われて」
 姫として城で暮らしていた彼女の生活環境は、さぞや快適に保たれていたことだろう。水仕事なんてのは下々のやることであり、もしかしたら一生、彼女には縁のないものだったかもしれない。
 その城を飛び出した始まった旅の間は、そんな些細なことを気にする者はいなかった。
(気にしてやれる余裕がなかった……ってのは、言い訳だな)
「なら、逆にしたらよかったな、分業。というか、言おうぜそういうことは」
「すみません、すっかり忘れてました」
「まあいいや。覚えたし」
「はい。次からはそうしましょう」
「ああ……って、つまりそれは次のを作ってこいって?」
 答えてから、はめられたことに気付く。
 見れば、エステルはにこにこと上品に、嬉しそうに微笑んでいた。
「ふふ、楽しみにしてますね」
「……絵本のイメージは考慮しないからな」
「はい」
 やられたな、と思いつつ――けれど、向こうからお誘いをいただけたなら次の理由を考えなくて楽か、と思い直す。
 先手を打たれたことに少しばかりの悔しさを覚えたユーリは、とりあえずエステルの指先が温まるまでは離さずにいてやろうと心に決めた。






 エステルに会いに来る際、甘党野郎は趣味と実益を兼ねた理由付けをしてきたらいんじゃね、
 もしくはエステルって冷え性っぽいよね→エローウェルはナチュラルにセクハラだよね、
 つーか幸せそうなユリエスをと思ったらヤマもオチもイミもなかったよ!!

 とかそんな話でしたすいません土下座。

(2009/04/04 up)

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