夕食を終え洗い物をしていると、背後からこっそり忍び寄った(当人はそのつもりらしい)人物からするりと腕が回された。
 胴回りをゆるく囲む細腕、そしてふわりと密着する柔らかな肢体が、ほんの一瞬こちらの動きを止める。
 それでも何とか心の平静を保つことに成功して、スポンジをわしゃわしゃと握りこみ立てなくてもいい泡を立てながら、努めて咎めるような口調で告げた。
「……何ですか、先輩」
 うん、とややくぐもった声が返される。ほんの少しだけ背中の密着面が広がって、そこからじわりと熱が上がっていく。
 この分では、しばらく離れるつもりはないのだろう。
 自分としても離れてほしくなどないし、むしろ正面から抱きしめ返したい気分で一杯で、しかしそうするためには汚れた皿を片付けなければならない。
 ところが今自分はその作業にろくに集中することができず、全く終わりが見えてこない。
 いわゆる悪循環というやつだ。
 残った皿はほんの数枚。油ものに使ったわけではないし、何度も擦る必要はない。のに、うっかりすると同じ場所を擦り続けてしまう。
 ぐ、と一度強く唇を噛んでぼやけた思考に刺激を与える。霞みがかっていた頭の中が瞬間的にクリアになった。
 その機を逃さず、手早く皿へスポンジを滑らせ表面の汚れを落とし、温水ではない方の蛇口を急いでひねった。冷えた流水で泡を流しきって、食器立てに整然と並べていく。
 全ての皿を片付けたときには幾分冷静な思考を取り戻せていた。末端から冷やしたのは正解だったようだ。
 ここで、いつもなら布巾で水分を拭き取って食器棚にしまうのだが――しかし、この状態では無理だ。何故なら、
「……先輩、これじゃ動けませんよ」
 ゆるく寄り添う程度だったはずの接触が、気がつけばあからさまに抱きつくレベルに達していたからである。
「先輩」
 呼びかけても一向に応じる気配がない。本当に仕方のないひとだなと、心中だけでため息をついた。
 もちろん、この状況が嬉しくないわけはない。ないのだが、本当に動けないのが困るのだ。いっそ振り返って抱きしめ返そうかと思う。
 けれど、でも。
 一気に振り解いてしまうのには、それはあまりにも温かくて柔らかくて――勿体なさすぎたから。
 だから、彼女が飽きるまでそうさせておこうと結論付けた。
 別に急ぎの用があるわけでなし。後の予定としては、適当にお喋りをしたのち、彼女を自宅へと送り出す程度。
 日付が変わっても一緒に居るには、もう少し時間の経過が必要だった。せめて高校は卒業しておくべきだろうか。そうしたら堂々と――二人きりの時間を増やしてもいいだろうと、根が打算的な自分はそう踏んでいた。
 今はまだ辛抱の時なのだ。
 ただ、もう少しだけ接触面を増やすぐらいは良いのではないかと、そう思って。
 手近なタオルで水気を拭った手を、腹のあたりで組まれているたおやかなそれに、そっと触れさせた、その途端。

 ぱしっ。

 耳朶を叩いたのはそんな音だった。続いて手に響いた衝撃が脳髄に伝わり、続いて温もりがすっと遠ざかる。
 反射的に振り向いたそこには、よろけるように数歩後退した彼女が、己の右手を左手で包むように握り、大きく見開いた瞳をこちらに向けていた。
 その手が震えているように見えるのは気のせいなどではなかった。何かを言いかけたような、薄く開いた唇すらも震えている。
「ご、ごめん、わた、し」
 さらに後じさろうとする彼女に歩み寄っていいのかどうか迷い、結局その場から動くことはしなかった。
 半歩下がっただけで、彼女が動きを止めたからだ。
「先輩」
「ごめんね、あの、びっくりしちゃって、冷たく――て」
 たどたどしく言葉を紡ぐ様に、床にくずおれる数秒後の姿を幻視して、あとは勝手に体が動いていた。
 細い体。異世界の命運を背負うにはどう考えても割に合わないことを改めて再認する。
 このまま力をこめたら本当に折れてしまうのではないか(もちろんこれまでもそんなことはなかったが)と心の隅で危惧しつつ、まずはその手の震えを止めようと、胸で重ねあわされた手を抱きこむようにして強く腕の中へと閉じ込めた。
 僅かに首の位置を下げて、髪の毛に隠されていない耳元へ、そっと、けれど力強く囁く。
「俺は、ここにいます。あなたがここにいるように、ちゃんと」
 迂闊だった。
 前にもこんなことがあったのだ。
 だから気をつけていたはずなのに、のぼせ上がった思考は過去の過ちを思い返す暇を与えなかった。
 水仕事などで表面温度が下がった手に、彼女はとても敏感に反応する。それは一時的なものであり恒久的なものではないと、理解はしているはずなのに。彼女の心と体は、理屈とは全く別のところで反射的に対応してしまうようだった。
 だから、存在を感じさせようと強く抱きしめるのであっても、いまだ冷たい手のひらを彼女の体に触れさせようとは思わなかった。
 ただ腕のみで抱きくるめて、手のひらは片方の手首を握る感じに。
 これは、自分の平均体温が高めであることも災いしている。
 さすがにそこを改善しようというのはやりすぎという気がしなくもないが、最後にお湯で手を温めてから彼女に触れるとか、対策はいくらでもできたはずなのに。
 自分の不甲斐なさに、己の手首を固定する指で、ぎちりと爪を立てさせた。
「……先輩」
 小さく呼んでみると、うん、とくぐもった声と首肯の気配が伝わってきた。落ち着いてきてはいるらしい。
 そもそも、彼女はいつもは、こんな風に甘えてきたりはしない。
 ときたま今日のように、何の理由も説明せずただくっついてくる。まるで温もりを確かめるように。
 それはあのときと――彼女が自分に思いの丈を告げてきてくれたときと――同じ、悪い夢を見たということなんだろうと――そう、自分は解釈していた。
 本当のところは知らない。聞いたりはしなかった。彼女が話したくなるまで待とうと思った。話したくないのならそれでいいとも。
 自分は彼女が必要だったし、彼女も自分を必要だと思ってくれている、それだけはわかっていたから。
 だから、そんなときに、さらに嫌な記憶を呼び起こさせてしまった自分が、今はとにかく許せなかった。
 もそり、と胸のあたりで動く気配がした。もう大丈夫という意思表示と理解して、爪を立てたままだった腕を放す。血管を圧迫された手指に血が流れ、次第に温度が戻ってくる。
 表情を伺おうとした途端、再び胴回りが締め付けられた。
 離れていくと思った体は、さっきまで閉じ込めっぱなしだった手をこちらの背中へと回し、倒れこむようにして抱きついてきたのだ。
「せん……」
 彼女の腕に力がこもって、続きを遮られる形になった。
 しばらく悩んだあと、宙に浮かせたままの両手を彼女の背に回し返す。すらりとした背で組んだ手は、もういつもの体温に戻っていた。
 それを確認してようやく、少しずつ抱きしめる腕と手に力をこめていく。


 どれくらいそうしていたかわからない。
 ただ、互いに感じる熱がどちらのものかが判別つかなくなった頃、ずっと言いたかった言葉を小さく紡ぐ。
「すいません」
「……譲くんが謝ることないよ。悪いのは私だもん。……ごめん」
「あなたこそ謝ることないでしょう。だって、俺は謝罪されるようなことをされた覚えがないですから」
「私だってそうだよ」
「……じゃあ、今のでおあいこってことにしましょう」
「うん」
 そうして、上げられた顔にはいつもの笑顔に「ほど近い」ものがあって。

 ――そんな顔をさせて、本当にすいません。

 続けそうになった言葉を留め置くために、彼女の唇で自分のそれを塞いだ。






 のぞったんをゆずゆに甘えさせるのが好きですいません。
 書いてる時は気付かなかったのですが、推敲してる時にとある方の萌え話と被り気味なことにようやく気付いて、半ば被ってるんですがいいですかとか聞きにいきました貧乏性ですいません。
 その節はありがとうございました(笑)
 
 そういえば最初は同棲ネタで「望美さん」とか呼ばせるつもりだったのに気がついたら「先輩」呼ばわりでした。
 名前呼びよりも身分呼びの方が萌える性質ですいません。

(2005/12/15 up)

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