あと一センチ、というところで彼女は振り向いた。
手にはどこからか、そしていつの間に取り出したのかクナイを握り、鈍く光る切っ先をこちらの喉元に向けている。下から睨み上げる目付きは本物で、細く開いた瞳にはぞくりとする凄みが伴われていた。
――のは、振り向いたその一瞬きりのことで。
手を伸ばしかけた姿勢で固まる自分を視認するなり、彼女はすぐにいつものそれに戻った。全身に込めた力を抜きながら呆れたように言う。
「驚かせないどくれ。……何するつもりだったんだい」
じろりと半眼で睨んでくるのを肩を竦めることでかわす。
「そりゃあこっちのセリフだぜ。マジで殺られるかと思ったっつーの」
「なら、あたしらミズホの人間に気配消して背後を取ろうなんて考えないことだね」
おどけた素振りも続く会話もその一言で切り伏せて、彼女は文机に向き直った。
背中から立ち上るオーラは、数分前にここへ来たときと何ら変わらない。邪魔をするな――ひどく明確な意思表示。
「いやさあ、ほら」
それでも懲りずに話し掛ける。返ってきたのはぺらりとページを繰る音のみだ。
彼女がさっきから熱心に格闘しているのは召喚術の教本で、やたらに分厚い。その歴史から概論から最新の研究レポートまでを一冊に凝縮してあるという、研究者にとっては便利な代物。裏を返せば、術そのものを会得しようとかいう人間向きの「教本」ではない。
なのに、彼女は文句一つ言わずにそれに目を通していた。
これしかないのならこれを使うまでだよ、ないよりは全然マシさ――そう言ってのけた彼女の不敵な表情が思い浮かぶ。
「やっぱお前ってクノイチだったんだなって思ってさ」
ぺらり――断続的なそれが止まった。憮然とした表情が首だけで振り返る。
「どういう意味だい」
「だってお前、あんまり隠密って感じしないし」
「……相っ変わらず歯に衣を着せない失礼な奴だねあんたは。だいたい、一目見て隠密だってバレるようじゃそれこそ隠密じゃないじゃないか」
「ま、そりゃそーだ。その胸は誘惑の効果だけじゃなくて、ミスリードにも役立ってるんだな」
おそるべしミズホの里。呟きながら納得しているとこのアホ神子、と彼女の唇が動いた。
「さっきは何しようとしてたのさ」
会話に乗ってきたことに少なからず満足感を覚え、ゆるく破顔する。
「いや別に、ちょっとした知的探求心てやつよ」
「知的探求心?」
「それ」
無遠慮に彼女の頭部――複雑にくくられた艶のある黒髪――を指し示す。
「どうなってんのかと思って。ついでに、ほどいたらどれくらいあんのかと思って」
「……そんなことかい……」
疲れた声で呟き――がくりと肩を落とすついでにため息までついて、彼女は首の位置を戻してしまった。
「おいおい、そんなことよばわりはないでしょーよ。今日の学問はその知的探究心を満たすことで進歩してきたんだぞ」
「あーはいはい。あたしはそんなくっだらないことに関わってる暇ないから、あんたの崇高な探究心とやらを満たすのは他所でやっとくれ」
本に目を落としたまま、ひらひらと手を振る。
それはさよならのジェスチャーにも見えるし、追い払う仕草にも見えて。
「ケチだなー、しいなは」
「ケチでも何でも結構。……悪いんだけど、邪魔するんなら帰ってくれないかい」
後半部の声色の変化を感じ取って口をつぐむ。帰ったところですることはあるだろうが――大勢のハニー達が今頃屋敷の前あたりでやきもきしている頃だろうし――それをしたいかどうかという意思とはまた別だ。
へいへい、口の中で呟いてから、壁にもたれかかる。
薄暗い地下の研究所。その奥にある資料室。
ぼんやりと明るいのは資料室まで侵食した研究機材のモニタによるもので、「灯り」という名目の品は彼女が使っている文机の上の、申し訳程度のミニランプだけだった。
初めてここに来たとき。
「研究所のくせに灯りの一つもねーのかよ。しけてるな」
「資料室ってもほとんど物置代わりだったのさ。そこを無理に場所を空けてもらったんだよ」
そんな会話のあと、このランプも所員の人が片手間に作ってくれたのさ――彼女は嬉しそうに続けていて。
熱心で純粋な彼女に、事情あって冷徹を貫く研究員らもほだされたということか。
たぶん、そうなのだろう。
そんな彼女があてがわれている宿舎へ滅多に戻らないのは――彼女が逃がそうとして、結果的に意気投合したらしい――コリンとかいうあの人工精霊のためだ。
二度と酷いことはしないと約束を取り付けたものの、安心はできないらしい。
彼女曰く、あたしがコリンと一緒にいたいだけさ、ということだが、牽制の意味合いも強く含んでいるのだろう。
この――由緒正しい教会付きの――施設で学べることといえば、人の尊厳をどこまで無視できるかという倫理観念の矯正。学者という人種の思考回路のズレ具合や、自分の体はどこまでまともでいられるのか、限界値の発見及び自覚、等々。
およそ進んで経験したくない事項ばかりを叩き込まれるこの学び舎に、彼女はやはり文句の一つもなく、単身乗り込んできたという。
隠密集団ミズホの民。
彼女がそこで孤立している存在であると聞いたのは、彼女がメルトキオにやってきたその日。
ごく普通に挨拶をしたところ問答無用ではたき倒されたあの日。
俺さまを心配する、噂好きのハニーたちがあることないことを大量に吹き込んでくれた中に混じっていた、一つの事実。
(――どうして、お前がそこまでする必要があるんだよ)
嫌なら嫌と言えばいい。けれど、それができない立場というものを、自分は嫌というほど知っていた。
だから言えなかったし、淡々と、時に笑い飛ばすかの勢いで「役割」をこなしていく彼女に自分の一部を見る気がして――むしょうに苛ついた。
(同族嫌悪には程遠いけどな)
自嘲気味に口元を歪める。自分と彼女と、立場も違えば考え方も違う。
彼女は彼女なりに、自身を取り巻く理不尽な世界で生きようとしているのだろう。
では自分は? 同じく理不尽な世界で、けれど望まれない生まれ方をして望まれない生き方をしている自分は?
(……死んだはずだったんだ、あのとき)
赤く染まる白。染まった白はもう元に戻らない。赤はやがて変色してどす黒くなり、白とは対極のものとなる。
そうしていらない自分は封じ込められたはずなのに、もう元の自分はどこからも見えなくなったはずなのに。
――どうして、彼女は一発で見つけ出してしまったのか。
それが、未だにわからない。
「召喚士のオベンキョってそんなに楽しいか?」
五分ぶりくらいで口を開くと、彼女はじろりとこちらを睨んで、すぐに手元の分厚い本に意識を戻した。
だが言うことに従って邪魔をしなかったからか、律儀に答えを返してくる。
「任務ってのは、楽しい楽しくないでやるやらないを決めるもんじゃないんだよ」
「もっと気楽にやったらどーよ? 人生楽しく生きてナンボでしょー」
そこで奇妙な間が空いた。雑談を打ち切ったのかと思ったが、ページを繰る音も止まっている。
どうかしたかと聞こうとして、狭い室内に押し殺したような低い声が響いた。
「……あんたは」
「あ?」
「あんたは、楽しいのかい?」
気が付くと、まっすぐな目がそこにあった。
背けることは許さないと、その瞳が語っている――否、自分にはそう見えるだけで、当人はそんなつもりはないのだろう。ただ話し相手を見ている、それだけのこと。
「……そりゃ、」
喉まで出かかった言葉に何の意味があるのか。
は、と息を吐き出して、そこまで来ていた言葉を粉々に砕いてから、「俺さまらしい」言葉を続ける。
「楽しいに決まってるっしょ。何せ俺さま毎日たっくさんのハニーたちからひっぱりだこなわけでぇ、男としちゃあたまんない人生だと思うぜ〜?」
浮かべた笑みにか言葉の内容にか――冷たい視線が向けられた。
次いで、失望したとばかりに表情が曇る。
そうかい、と突き放すように呟かれて、もう彼女はこちらを向いてくれなかった。
再び壁に背中を預ける。
(何を期待してんのかね、俺さまは)
一度死んで呼び出されて、けれど表に出られないままの自分に気付いてもらいたいのか。
かといって、そんな自分を同情されたり慰められるのはごめんだった。それこそ死んだ方がマシだ。
(どうにもなんねーじゃねえの)
自分がここに存在することを認めてもらいたい。存在するからには意味があるのだと思いたい。
けれど、認知されるまでの過程や段階を考えると吐き気がした。
第一、今更認めてもらってどうなるわけでもない。例え存在していても、その居場所はどこにもない。
――現存できないものに、存在する意味はない。
こんな矛盾もいいところの気持ちを持て余すのにも、そろそろ疲れてきた。
潮時か――最近頓にそう思う。
「あれ? 確か訂正のメモが……」
ぺらぺらと急いでページをめくる音と、いぶかしむような声。
没頭していた思考から浮上すると、きょろきょろと辺りを見回す彼女と目が合った。ただし、ほんの一瞬だけ。合った途端当たり前のように逸らされたのは、彼女の意識が俺さまなんかに構ってられなかったからだ。
彼女は、俺さまよりも重要な何かを、探している。
「何だ。どした?」
「訂正部分のメモを挟んどいたはずなんだけど……ないんだよ」
おかしいねえと彼女はもう一度分厚い本を最初からばらばらとめくりだした。
とりあえず自分も確認してみるが、床には何も落ちていない。ならばやはり本の中か、と顔を上げて、そういえば何時だ今はと時計を探す――すぐに、この部屋に時計がないことに気付いたのだが。
その前に目に入ったものがあった。
「……しいな。訂正って514ページの6行目の公式と1089ページの展開図とか?」
「そう、それそれ……って、何であんたが知ってるのさ」
「ここに貼ってあるから」
自分のすぐ隣の壁――コルク製のクリップボードを指してやる。そいつだよ、と彼女の顔が安堵に満ちた。
「何だってそんなとこに」
「さあ? 誰かが気を利かせて貼っといてくれたんじゃねえの?」
「それもそうか……じゃ、悪いんだけどそれ取っとくれよ、ゼロス」
言って、彼女は無造作にこちらへ手を差し出す。
(――っ)
勉強中だからか手甲を外している、インク汚れのついた手の平。
それとボードとを見比べて、自分が一瞬、飛躍にも程がある勘違いをしたことに気付いた。
「……りょーかい。立ってる者は親でも使えってな。高くつくぜ〜?」
「たいした手間じゃないだろ。どうせ暇なんだろうし――っとと」
ばらばら、と本が勝手にページをめくっていく。押さえておいたページを探すべく、彼女はまた机に向き直ってしまった。
コルクからピンを抜いて、メモを手にとった。彼女は必死でページをめくっては内容を確認している。
(……お前が悪いんだぜ)
一歩一歩、なるべく足音を立てないように近づく。但し、今度は気配を消す必要は無い。
すぐ真後ろまで来て、ぴらり、と紙がよれる音を耳元に聞かせてやる。
「ああ、ありが――」
本に没頭したまま、彼女の手が上がって。
お礼の言葉を言い終えないうちに、そのままがばりと覆い被さった。
「って、ちょっ……」
(……やーらか)
「な、何すんだい、離しなこのアホ神子!!」
お前がそう呼びさえしなければ。
「こらやめ、っひ、人を呼ぶよ!?」
そうしたら。
「どーぞ? きっと皆気を利かせてくれると思うぜ?」
余裕たっぷりに耳元へ囁いて、両腕に力をこめる。
――こんな温もりも知らずに済んだのに。
離し難いそれを自ら突き放したのは、それから数日後のことだった。
一度死んだものが蘇ったとして、結局それはゾンビでしかない。どうやっても、生きた人間には戻れはしないのだ。
希望と絶望を等しく与えてくれた彼女に、どうか幸がありますようにと祈って。
去っていく後姿を、俺さまはただ突っ立って見送った。
了
ドラマCDを聞く前に捏造してたんですが、史実とそれほどかけ離れてないかなーとゆことで出してみる(恥さらし)
(2004/08/01 up)
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