連れ立っていく二つの背中を薄く開けたドアから見送る。玄関が閉じる音を聞いてようやく、あてがわれた部屋から体を出した。
 そのまま廊下の壁に背中をもたせかける。

 そうしてしばし。
 まだ一つだけ開いていないドアが開くのを、目を閉じて待っていた。





 そっと開いて、さっと出てきて、ゆっくりと音を立てないようドアを閉じる。
 聴覚の発達した者や、まして廊下に居る人間には何の効果もない作業を終えて、彼女ははーっと息をついた。
「よーう、しいな」
 ぎくっ、と擬音が聞こえてきそうなほど大げさな反応が返る。もうひとりの少女に出し抜かれた――といってもそれは予想済みではあったのだが――腹いせが成功して、俺さまはにやりと笑った。
「ゼ、ゼロス!」
「どっか行くのか? この寒空の中」
「別に! ……そんなんじゃ、ないさ」
 頬を染めて視線を逸らす彼女はとてもわかりやすい。知らず、こちらの口元はさらに歪む。
「じゃあ、ロイド君に御用?」
「あ、あんたには関係ないだろ?!」
 途端に視線をきつくして、頬の染め具合も三割増でまくしたてて、疑いようのない肯定を伝えられた。
 必死なのがよくわかる――同じく先を越された俺さまも一応、必死、ではあった。その気持ちはわからないでもない。
 俺さまは肩をすくめて体を起こすと、廊下の窓を指さしてやる。
「ざーんねん。先約アリだってよ?」
 はっとしたように視線を窓の外に移動させて――しいなはゆるゆると勢いをなくしていった。わずかに肩を落としてから、そっか、と呟くのが聞こえる。
 窓枠に切り取られた景色の中を、寄り添って歩く二人。その姿は高台の方へと消えていく。……まあ、誰も考えることは一緒ってこったな。
「コレットじゃあ……しょうがないね」
 降りしきる雪と、それに埋もれる街並みだけになった窓を見つめたまま、ぼんやりとしいなは言った。
 たぶん本人は口に出したつもりじゃないんだろう。だから俺さまも心中だけで同意しておく。
(ああ。コレットちゃんなら、しょうがない)
 自分と同じ神子でありながら、彼女は身にふりかかる全てを受け入れ、さらに自身の中に抱合したその上で笑顔を見せる。
 それは決して逃避などではなく。
 辛いことも悲しいことも苦しいことも全て真正面から受け止め、立ち向かう強さが成せるものだ。
(かなうわけがないんだ)
 対する自分が笑うのは、そんな前向きな理由ではない。
 自分を含む全てを嘲笑うことでしか、すぐにでも崩壊しそうな何かを抑えられないから。何もかもから逃げ続け、あのときから十年以上生き長らえてもなお、「作り笑う」以上のやり方を見つけられなかった。
 簡潔に言えば、自分は強く在れなかった。ただそれだけのことなのだ。
(そうだ。ロイドくんの選択は、間違っちゃいない)
 だからもう、無理して弱者の側について強がる必要もなくなった。
 明日、この神子様ご一行は敵いもしない相手に最後の喧嘩をふっかけに行く。そこで一番楽が出来る――俺さまの生き方を貫く――方法といえば、たった一つ。
 強者の側につくこと。
 単純明快、うだうだと考える必要もない。支配する者にハイハイと従ってりゃあいい。それだけで僅かな未来は約束されるのだから。
 そうして、とてもとても役に立つ俺さまは踊らされるだけ踊らされて、無様に散り行くのだろう。
(それもいい)

 ――楽になれるなら、何だっていい。

「それで、あんたは何でこんなとこにいるのさ」
「俺さま?」
 問いかけに鬱屈とした思考から意識を引き戻すと。
 似合いもしない、ぎこちない笑みは意図して見せているのだろう――しいなが茶化すように続けてくる。
「なんだい、まさか眠れないとか言うんじゃないだろうね」
「そのまさか……だとしたら、膝枕で子守唄歌ってくれる?」
「誰がするかそんなこと」
「ちぇ、つめてーの。しいなちゃんのいけず」
「何とでも言ってな」
 そんな風にいつもの調子でやりとりを終えることができて、ようやく。彼女の表情からほんの少し、強張りが解けたのが確認できた。
 安堵の気持ちがじわりと疼く。
 と同時に、ちりちりとした焦燥もざわめいた。
(……どうせなら、いっちょ派手にやっとくか?)
 ふとした妙案は、彼女の和らぐ表情と共に確信めいた成功を約束してきた。それがいいそうしろやるべきだ。自信に満ちた自分の声が全てを促す。
 そう――後悔するのがばかばかしくなるくらい、全てを断絶してしまうといい。
 掴めもしないのに、けれど振り返りたくなるような希望など、残す必要はない。
 そうして何もなくなって、身軽になった体は面白いくらいどこまでも踊り尽くせることだろう。どうせ堕ちるなら、とことん突き詰めた最低のどん底まで。
 その方がむしろ潔くて、後腐れもないんじゃないだろうか。――お互いに。
「あたしももう寝るからさ、あんたもさっさと寝なよ。明日の朝一番でリフィルたちが帰ってくるってんだし」
 おやすみと締めくくり、こちらの返事も聞かず自室へと戻っていく。真っ直ぐな視線がなくなって、覚悟も決まった。
「……なあ、しいな」
「なんだい?」
 呼び止められた彼女は首だけでこちらを見た。用があるなら早くしとくれ、その目が語っている。
「俺さまたちも散歩に出てみねえ?」
「――ぇ」
 しいなの表情がはっきりと強張った。
 表情を崩さぬまま、中途半端な姿勢から先ほどの向き合う体勢に戻る。戸惑うように口を開きぱくぱくと僅かに動かしてまた閉じて。
 そうして逸らされた視線は床へと注がれた。
「……勘弁しとくれよ。こんな大雪の中出てって風邪でもひいたらどうすんだい」
「なぁ〜に、そんときゃ俺さまが責任持って温めてやるって――」
 途端、がつ、という衝撃と共に視界がブレた。頬に瞬間的にめりこんだのはしいなの右拳である。
 予想済みのそれはあえて受けたもので、それでも、とっさにふんばった両足で体勢を崩すのを防がねばならなかった。
「ふざけたことぬかしてると本っ気で殴るよ」
「……ってぇー! 前にも言ったけど殴ってから言うなよなー!」
「違う」
 下から睨み上げてくる榛色の瞳には、本気の色が見て取れて。
「今のは、次に言ったら無事じゃ済まさないって意味だよ」
 相変わらず目の保養になる豊満な胸。その前で組まれた手からはばきり、なんて物騒な音が響いてくる。
 言葉を失った俺さまへ最後の一睨みをくれて、しいなはくるりと背を向けた。

 去りゆく背中。腰の大きなリボンがひらひらと揺れる。
 ピンクの蝶を思わせるそれは、


 ――まるで自分を誘っているかのようだ。


 痛む側頭部をさすりながら、気配を消して近づいて。
 十分に距離を縮めたところで名前を呼ぶ。
「しいな」
「?!」
 近すぎる声に振り向いたしいなの背後へまず左手、次いで右手を打ちつける。ドアの手前の壁に彼女を縫いつけた――蝶の標本を作る心地。
「っ……何の真似だい」
 自分が作る影の中から向けられる視線はひどく険しい。
 それをものともせずに、俺は言った。
「今から、ふざけたことを言う」
「……は?」
「だから殴ってくれていいぜ、本気で。一発でも何発でも気の済むまでやってくれりゃいい。ああ勿論、明日リフィルさまが治療できる範囲で頼むな」
「ゼロスあんた、何言って」
 明らかに戸惑う彼女へ顔を近づけ反論を遮り、
「だからよ……俺の話も聞いてくれる?」
 しいな、と必要以上の近距離で続けた。相手が息を飲んだのがわかる。

 あともう一押し。
 それできっと彼女は、俺を殴り飛ばした挙句に、思う存分容赦の一つもなく罵倒してくれるに違いない。そうして、今度こそ俺に背を向けて愛想を尽かしてくれるだろう。
 それでいい。

(死んだはずの俺を引きずり出したのはお前だぜ、しいな。だから――)

 もう一度突き落とすのは、お前の義務だ。

 すぐ目の前で、喘ぐようにしいなの唇が動く。
(最後にキスくらい、おまけしろよな)
 俺はそのまま距離を詰めていき、

「――っ!」


 思いっきり頬を叩かれた。
 今度はさすがに勢いを殺せず、体勢を崩し無様に床へ倒れこむ。



「……てぇ」
「いいかげんにしな、このアホ神子っ!」
 こちらの望みどおり――渾身の平手打ちだったのだろう。頬の皮膚がじんじんと痛む。
 あっという間に熱を持ち始めたそこに、壁を押さえていた手をあてた。ひんやりと心地いい。自然と口元が歪む。
(アホ神子……か)
 自分をそう呼んでくれるのは世界で唯一、目の前で怒りを顕にする女だけだった。
 無論、世間はそれを愚行と評する。
 たとえ裏にどんな意図があったとしても、畏敬の念を払って呼ぶべき呼称。それが「神子」。世界を救うための合法的で正当性を備えた犠牲。よって、人々が心から崇め称えるべき存在。
 それを捕まえてアホ呼ばわりとは、確かにばちあたりも甚だしいのだろう。
 ――ただ一人、呼ばれる当人を除いては。
(まあ、確かにアホなんだろうな、俺さまは)
 信じてくれた奴らを売り飛ばす決意した。
 これまで情けなく足掻いてきた全てを投げ出した。
 そして今――唯一の希望を自らの手で断ち切ろうとした。
(アホ呼ばわりも聞き収めだな。これでもう、俺さまは二度と生き返ることもない)
 崇敬の代名詞たる「神子」。
 それにたった一言「アホ」が付くだけで、「神子」は世界のために生きる人身御供の総称ではなく、当代のテセアラ側再生の神子を召された「ゼロス・ワイルダー」個人を示す固有名詞になる。
 あの雪の日。実の母親が最後にしてくれたことは、実の息子の存在意義剥奪だった。母親と一緒に「ゼロス・ワイルダー」という存在も死んだのだ。
 後に残ったのは「再生の神子」という容れ物だけ。死んで空っぽのはずの中身は周囲が勝手に埋めてくれて、テセアラの神子が誕生した。
 そして数年後、出会ったばかりの彼女が言い放った至極当然の悪態一つ。たったそれだけで、死んだはずの俺さまは現界するに至った。単語は違えども――「ゼロス・ワイルダー」を、呼びつけられた気がして。
 誰も見ていなかった俺さまを、あいつは的確に見つめてきて、ずかずか乗り込んできて、何をしているのかと叱咤する。戻ったところで居場所なんかないのに。
 けれど彼女が「アホ神子」と呼んでくれれば、そこが居場所になっていった。彼女が自分を「アホ神子」と呼ぶ場所。彼女の隣――とまではいかなくとも、その側。
 それを求めて、手にして、……手放して。
 きっと、今夜ロイドに話そうと思っていたことを聞いたなら、彼女は俺さまを呼ぶのを躊躇するのだろう。いつしか呼ばなくなるのだろう。そういう奴だ。
 シノビに向かないお人好し。
 それが俺さまを今日まで生き長らえさせた、藤林しいなという女なのだから。
「あんたって奴は……どこまでバカなんだい」
 しいなは吐き捨てるように言った。その声が震えているのに気付いて顔を上げると、うまい具合に焦点をずらされる。
 目を合わせてくれないことに何故か痛みを感じて、思わず謝罪の言葉を述べかける。伝えたところで、もう意味なんかないのに。
「……わり」
「話聞いて欲しいんだったら」
 聞こえていないのか、こちらの言葉をぶった切ったまましいなは続ける。
「そう言えばいいじゃないか。……聞いてやるよ。あたしでいいんなら、いくらだって」

 ――何を。

 言われたのか、頭が追いついていない。
 俺さまを置いてけぼりにしたまま、しいなは勝手に話を進めていく。
「あんたはいつだって何も言おうとしないし、言えばはぐらかすばっかりで、聞いてやろうって気を失くさせるけど」
 手甲の外された両手が固く握りしめられる。
「それでも、あんたが聞いて欲しいって言うんなら、聞くよ。ロイドみたいな良い聞き手じゃないかもしれないけど、聞けっていうなら聞くさ。……何より」
 そこでようやく、しいなは視線を合わせてきた。まっすぐに、一つの曇りもない瞳で。
 それは自分を捕らえて逃がさせてくれない。
「あたしが聞きたいからさ、あんたの言うこと」
 ぽかんと、目の前を見つめる。
 視界にいっぱいの、神妙な顔でこちらを見下ろす彼女。
 自分の思考は真っ白で、とにかく追いついていない。
「なんで」
 ようやく動いた脳がはじき出したのはそんな一言でしかなく、対するしいなははあ?と失礼な態度を返してきて。
「何でって……」
 一度言いよどんだあと、もう一度こちらの目を見つめて、ふ、と笑う。
 その笑みの理由がわからない。
「あんたが珍しく聞いてくれ、なんてお願いしてきてるんだ。断る理由なんかないじゃないか」
 柔らかな笑みはそのままで、しいなは当たり前のように手を差し出した。
 目の前のそれをじっと見ていると、ほら、と指先が招く。そこへ右手を乗せてみると軽く握られた挙句に引っ張り上げられて。
 両の足裏へ地面を感じたそこで初めて、抵抗しがたい衝動に、抗おうともしなかった自分に気付いた。
(……は)
 愕然とした心持ちで、けれどどこか力が抜けたような、奇妙な感覚が全身を支配する。
(結局逃げられねぇってわけ、か)
 ロイドに――奴になら賭けてもいいと思った――話す機会を失い、ならばいっそ楽な方へ、少しでも長く命が続く方へ逃げ切ってしまおうかと思っていたのに。
 希望の一つも残さずに、あの懐かしい闇の中へ戻ろうと思ったのに。
 つと、今更真意を確かめるでもなかったが、しいなの瞳をじっと見つめてみる。一瞬逸らしかけた視線はそこに留まって、真摯な態度を伝えてきた。
 あの、素直で実直な熱い瞳。それとは微妙に違っていたけれど、これは信ずるに値するものだ。
 そんなことは、とうの昔からわかっていたことなのに。
(……いや)
 だからこそ、万が一裏切られでもしたら二度と自分は立ち直れなくなるだろうから――無意識のうちに遠ざかっていたのに。
(おまえといいロイドといい、なんでそう)
 とうに捨てたはずのものを、思い返させてくれるのか。
「マジに……聞くのか?」
「やっぱり嫌だってんなら聞かないけどさ」
 違うだろ?と目だけで訊いてくる。
 即答に困る、眩しいくらいの笑顔。

 ――どうやら、俺さまはまだ死なせてもらえないらしい。

「人生、そうそう楽はさせてもらえねーな」
 ぼそりと呟く。聞かせるつもりで言ったそれは、意味まで理解させるつもりはなかった。
「なんか言ったかい?」
「なーんにも。って、どこ行くんだ?」
「ここだよ」
 コン、と背にした扉をノックで示す。そこは先ほど彼女が出てきたドアだ。
「本当に風邪なんかひいたら困るからね。この中で聞かせてもらうよ」
 一瞬、思考が飛びかけた。
 彼女が言ったことが聞き違いでないと、幾度か脳裏で反芻してから、確認してみる。
「お前の部屋で?」
「ああ」
「俺さまの話を、お前が聞く?」
「だからそう言ってるだろ」
「つまり、……密室に、二人っきりで?」
 苛ついたようにそうだよ!と言い切ってから――彼女はようやく意味に気付いたらしい。
「わーお。しいなちゃんたらだいた〜ん」
「んなっ、何考えてんだいこのエロ神子!! あ、あたしはそんなつもりじゃ……」
 先刻までの余裕はどこへやら、しいなは顔を真っ赤にして慌てふためく。俺さまはそんな彼女の肩をすかさず抱き寄せて。
「だぁ〜いじょーぶ安心しろしいな。俺さま長持ちする方だとは思うけど、その気になれば二人が戻ってくるまでには――っぐげ」
 片手で上着を掴んで吊り上げ、ゆらりと静かな怒りの炎を瞳に灯らせて。
 しいなは腹の底から搾り出すような声で言った。
「……聞くっつったからには聞くけどね。少しでも変な素振り見せたら、あんたはしばらくここで養生することになるだろうから、よーく覚えておくんだね」
「や、しいなさんごめんなさい俺さまが悪かったですっつーか目が、目が怖い! 怖いから!!」





 ――ロイドとコレットが戻ってくるまで、ほんの十数分の間。

 今夜口にしようとしていたことは、いつかまた取り出せるよう、胸の奥底に押し込んで。
 下手をしたら最後になるかもしれない他愛ない会話を、心へ残すことに専念した。






 フラノールでロイドくんにフられたゼロっさんが自暴自棄にならなかったのはしいなさんのせい、とかいうしょうもない妄想(痛)
 (フラノールイベントはロイコレゼロしい組でしか見たことない偏りまくりなひと)(早くPS2版でも見ないと……)

(2004/10/04 up)

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