難しい顔でときおり唇を噛んだり額に手を当てたり、今日は朝から書類と首っ引きになっているというのに、貯めこんだ紙の束は一向に減っていかない。
混沌としてきた思考をすっきりさせようと深呼吸をしたつもりがため息になっていて、しいなは諦めて大きくため息をつくことにした。それで何が変わるわけでも事態が進展するわけでもなかったが、心持ち気分は良くなった。
自分は堂々とため息をつくほど思い悩んでいる――状況を把握できていないというのはどうしても不安な思考へ流れがちだし――それを認識できただけでもいいことにしよう。
(それにしても)
周囲に詰まれた書簡の山。その内訳はさまざまで、単なる同意書に稟議書に、提案書という名の苦情文書までよりどりみどり。
特にその「提案書」が一番やっかいで、一番多いパターンが、あっちを立てればこっちが立たない、けれどどちらの言い分ももっともですげなく却下することも憚られる、というもの。そんな判断不能の部類が後を絶たないのだ。
(まったく、世界を統治しようだなんて奴の気が知れないね……)
むしろだからこそ、あのような手段に出たのかもしれない。今となっては確認もできないし、したくもないが。
つくづく自分には向かない方面だと無益なぼやきを繰り返して、しいなは瞳を閉じた。
あと十秒だけ休んだら、再開しよう。
幾分ゆっくりとカウントダウンをはじめて、残り二秒となったそのときだ。
ポーン、ポーン、ポーン……
定刻より一秒半ほど早く目を開けたしいなは壁を見上げた。豪奢なインテリアにとけこむよう気を遣って選んだそれは、世間でいうところのランチタイムが訪れたことを告げている。
(もうそんなに経ってたのか……)
そもそもこの部屋には時計というものが存在していなかった。否、ありはしたが、それはもう動かなくなり時計としての意義を失った物体だった。
部屋の主に何で直さないのかと聞いてみたことがある。
返ってきたのは「必要なかったから」といういたく簡潔な答えと、その続きはもう無いのだという、追求をやんわりと拒否する雰囲気だけで。
それは、自分が時間を知らずとも執事などの周りが世話してくれるという意味なのか、それとも。
彼にとって、時間が重要な意味を持たなかったかの、どちらか。
どちらにしても自分が立ち入れる話じゃないと判断して、しいなは彼の望みどおり、時計の話題を打ち切った。
それから数週間後、――全権大使の任を受け――しいなは激務の合間を縫い壁掛け時計を買ってきた。彼の執事セバスチャンに手伝ってもらいながらそれを備え付け、ありがた迷惑といった表情の彼に言ったのだ。
「ここで仕事してると時間がさっぱりわからないからね。それにあんた、ほっとくと何も食べないそうじゃないか。ご飯時くらいちゃんと認識しときな」
へーいへいへい、とぼやいたその顔に、例え苦笑だとしても笑みめいたものが見れて、胸の奥でこっそりと安堵して。
何故そうも安堵したのか――そのときは、深く考えなかったのだけれど。
「……昼メシにすっか。お前も食うだろ?」
後方からの声に思考を現実に戻す。振り向くと呼び鈴を手にしたゼロスがこきこきと首を鳴らしていた。
「ああ。悪いね」
疲労を隠しきれないへらへらした笑みだけで相槌を打って、ゼロスはちりんと合図を鳴らした。そうして二人分の食事をドア越しに伝えると、かしこまりましたとくぐもった返答が戻ってきた。
いつもの見慣れた光景ながら――しいなはふと思う。そこそこ防音がきいた室内の鈴の音をどうやって聞き取っているのだろう、あの彼付きの執事は。
発達した聴覚も優秀な執事には必要なスキルなのだろうか。
そんなどうでもいいことをぼんやり思っていると、単なる背伸びにばきばきと豪快な音を伴わせて、ゼロスがやってきた。
「ほんじゃ、メシが来るまで休憩にしようぜ」
ぼふん。
全身の力を抜くようにしてゼロスはソファに沈み込んだ。隣に座っているしいなにずしんと振動が響く。
隣、というよりは密着というべき配置。気が付けばソファの背もたれにはゼロスの左腕が置かれていて、しいなの肩を抱くような姿勢をキープしている。
「……休憩なら向こうでしな。ベッドだってあるんだし」
「じゃあ正味二十分……いや十五分てとこか。まあ二度は無理でも一度くらいなごがっ!?」
書類に目を通しながら、しいなはゼロスの頬に拳をめり込ませた。何事もなかったかのように書類のページをめくる。
ゼロスはといえばソファの端まで軽く吹っ飛ばされ、やがて痛む頬をかばいつつ涙目で起き上がった。そうして、聞こえないように舌打ちする。
(……あっちゃ)
彼女から漂うぴりぴりした雰囲気。
ゼロスは開こうとした口をつぐんで、代わりに開いてしまった距離を測り出す。全てはタイミングなのだと、彼の経験則は語る。
少しずつ少しずつ、離れ難いそれを詰めていき。
「あたしが言ったことが聞こえなかったかい」
ぎくりと動きを止めるも、怖いもの知らずといった調子でゼロスは言った。
「いやほら、俺さまとしてはこっちの方が心休まる感じだし? しいなこそそれ置いて休めって」
言いながら最後のページが開かれた書類に手を伸ばす。それをかわすように、しいなは勢いよく立ち上がった。
「ならあたしが向こうに行く」
書類に目を落としながら、一歩を踏み出す。二歩目で、しいなの体はがくんと突っ張った。
「……」
原因の名前を呼ぶのも面倒くさい。
それぐらい今の状況は――そうしている彼も、そうさせてしまった自分も――馬鹿馬鹿しい、しいなはそう思った。
首だけを振り返らせ、しいなは己の腕を見下ろす。
別段細くもない手首をぐるりと囲む男の手。拘束と呼ぶには些か心もとなく、けれど体温を伝えるには十分な力加減。
だから、振り払う気になればいくらでもできた。
つまるところ相手としても強引に引き止めるつもりはないのだろう。――この程度で十分だとなめられているのかもしれないが。
しいなは視線を上げた。
彼の顔に常時――は言いすぎか、その八割方――貼り付けられているへらへらとした笑み。
今は口元だけがゆるく歪むのみで、その瞳は笑うでもなく怒るでもなくまして泣きそうなわけでもなく、どこか遠いものを見る目の色をしている。ように、見えて――
振り解けばいい。
まるでそう言われているような、趣味の悪い錯覚を覚える。
「っ、……」
手にしたそれを握りつぶす前に、元あった紙山へそっと置いた。それから、あの瞳だけは見ないようにして元の位置へ身を沈ませる。
膝上でぎゅっと握った両手を睨み付けながら、しいなは低く呟いた。
「妙なことしたら最低一ヶ月はここに近づかない」
背もたれに先刻の場所をキープし直して、改めて肩口に触れようとしていた指先が動きを止める。もちろんその様はしいなに見えてなどいなかったが。
「このぺらぺらしたハニーたちはどーすんだよ」
絢爛豪華な部屋を数百単位で埋めつくす繊維質でできた「ハニー」たち。これらが彼の部屋に入り浸るようになって、もう何ヶ月経つのか。
「同じものをミズホに送ってもらう」
「それが効率悪いってんで、俺さまの部屋を逢引場所に指定したの誰だっけ?」
「迷惑ならいつでも言ってくれていいんだよ? 最初からミズホにも送るよう手配してもらえばいいだけだし」
「何か今日のしいな冷たくない? 俺さま何かしたー!?」
さっきしたばかりじゃないかとツッこむことも放棄して、
「……休憩なんだろ。休ませとくれ」
しいなはソファの背もたれに首を預けた。両手で目元を覆い、それから目も閉じる。
以前なら簡単にできていたことが、できなくなっている。
それは、世界の命運をかけた旅を終えて、再びその超過責務を負うようになってから。
彼をかわすタイミングが、明らかに甘くなってきている。
元来それは非常にデリケートでギリギリで絶妙でなくてはならないものだった。一つ間違えばとんでもない遺恨を残しかねない。彼にも、そして自分にも、こっぴどく。
以前ならもっと素早く、的確に判断できたはずなのに。
容認するにしても、もっと長く引き伸ばすことができたはずなのに。
これなら大丈夫だと受け流すことすらできたはずなのに――今はそれができない。
それは、何かとてつもなく大きな損失を恐れてのことだと、自覚はしていた。よくない兆候だということも存分に。
けれど今更それは戻せない。
戻した瞬間、こうして保たれていた均衡が崩れてしまう可能性だってある。
それが怖くて、結局早まったタイミングは遅くなることがない。なお悪いことに時間経過と比例し加速度を増していく。
(……まるっきり悪循環じゃないか)
今度の失敗は許されない。
だからこそ、万全の体制が組まれている。あのときと違って、後ろに控える者たちも、隣で同じ方向へ歩いてくれる存在も、絶大な信頼を置いてしかるべきもので。
震える手を握り締めて誤魔化して、先陣を切らなければならない現状。
その中へ身を置くというのに――差し出された逃げ道はいつだって側にあるのだ。
自分がこうも弱くなったことを、認めたくはなかった。
けれど否応なしに思い知らされる。
こうも同じ時間を過ごしていては。
そしてそれが避けようのない状況であることに、体のいい言い訳だと甘えた自分が居ることが拍車をかけて。
(あたしは)
もう逃げないと決めたのに、進み目指すその隣に――その先に、逃げ場があるときはどうしたらいいんだろう。
閉じた瞳の中は真っ暗で、けれど触れている肩の熱にほだされそうになり。
しいなは両手で顔全体を覆わなかったことに後悔しながら、唇を噛むことは諦めて、隠した両の目を強く瞑った。
時間経過を囁くカチコチという耳障りな音が、自分が持ち込んだそれだということに気付いたのは、もうしばらくあとのことだった。
了
画面の前でものすごい引かれてそうです。そしてわかりづらくてすいません。
白状すると、裏っぽく続きそうな展開を力尽きて強引に切ったせいです。いや本当ごめん。
(2005/08/12 up)
戻る