「ひゃー、ひどい目に遭ったね」
 玄関ポーチに駆け込んで、かばうように胸に抱いていた書類を確認しながら――どうやら無事だったらしく、しいなは笑って言った。
「まったくだぜ。……まあ何、これがホントの水もしたたるいい男?」
「あー、はいはい」
 文字通りぽたぽたと水滴を落としながらポーズを取るゼロスに、しいなは手で追い払うような仕草を返すのみ。
「おいおいしいなー、見惚れるなら今のうちだぜ?」
「はいはいはい」
 さっさと開けな。
 そう、ぎろりと視線で玄関を示すと、ゼロスはぶつくさ言いながら我城の扉を開いた。
「お帰りなさいませ」
 折り目正しい挨拶と辞儀に迎えられて、ゼロスは主人らしく、しいなは客人として礼を返した。濡れ鼠の様相を呈する二人を見るなり、ワイルダー家の優秀な執事はすぐさま次の仕事に取り掛かる。
「すぐ入浴の支度をいたします」
「ああ、とりあえず俺さまの部屋から頼む。ほらしいな」
 音もなく階段を登り始めたセバスチャンを示されて、しいなはきょとんと見返した。ん、とゼロスが頷く。
「い、いいよあたしは後で。ここはあんたの家なんだし」
「ばーか。我らが全権大使さまがお風邪でもめされたらどーすんだよ」
「この程度じゃひかないって。ま、あんたみたくバカじゃあないけどね」
 そう言って肩をすくめたしいなの手から、ゼロスは書類を抜き取った。返せと伸びてくる両腕を身長差ではねのけつつ、
「万が一ってことがあるでしょーよ。それにお前、俺さまの評判落とすつもりか?」
「あんたの評判とあたしが風邪ひくのと、何の関係があるってのさ」
 わかってねえなあ、ゼロスは大仰に肩を落とした。心底不思議そうにしている、ひとまず抵抗を止めてくれた相手を恨めしげに見上げる。
「今日一日、俺さまとしいなが一緒に行動してたって知ってる人間が何人いるよ」
「え? そう……だね、議会の出席者は全員、それと謁見の間にいた人……くらいかな」
「あそこに突っ立ってた衛兵も含めりゃざっと三十人強か? 証人の数としちゃ十分すぎるわな」
「証人って、何の」
「俺さまがついていながら、全権大使さまにご病気を煩わせたってことの」
 俺さまの信用ガタ落ちでしょーが、ぼやくように付け加える。
 しかし、普段のゼロスが言うことの半分は誇張された法螺だと認識しているしいなには、現実味のない冗談としか考えられない。
「それだって、もし本当にあたしが風邪ひいたとしても、あんたのせいってわけじゃないんだし」
「お前はな。……ま、世間の目ってのはキビシーんだよ、色々とな」
 さり気なくそらされた視線が、ここにはない何か――しいなには計り知れない彼の過去、だろうか――を見ているように思えて、しいなは口をつぐむ。
 全権大使としての心得をとうとうと語り上げた王室付きの外交官も、そういえば似たようなことを言っていた。
 だが、そんな幾年もその役目を勤め上げた老年の紳士より、ぱっと見でぼんやりしているようにしか思えないこの男の方が、よっぽど言葉に重みがある。そんな風に感じた。
 それを自覚してしまうと、さすがに従わないわけにはいかない。わかったよ、としいなは折れた。
 この男がどんな経験をもって、そう結論づけるに至ったのか、しいなには予想もつかないのだから。
 ただ――素直に折れるのはどうもしっくりこないというか、まして負け惜しみなどではないのだけれど――しいなの経験則から、気になったことを口にする。
「でもあんたはどうすんだい」
 まさかタオルで拭くだけとは言わせないよ――しいなはそう釘を刺すつもりだったが、濡れた髪をかきあげたゼロスは予想外の答えを返してきた。
「ああ、俺さまは客室用の風呂に浸かってくっから」
「何だ、それならあたしがそっちで――」
「普段あんま使ってないから俺さまの部屋の方が早く準備できんの」
 ほらほら行った行った、ゼロスは素早くしいなの後方に回り込むと、背中を押して強引に階段を登らせる。
「ちょ、一人で登れるよこら!」
 上まで登りきったところでゼロスの部屋のドアが開く。静かに廊下に出た執事は準備が整ってございます、と扉を押さえた。
「ほらあったまってこい」
 押し出されて、どこか納得いかないものを感じつつも、しいなは厚意を受け取ることにした。
 というか、ここまでされて遠慮するのは逆に失礼でしかない。
「じゃあ、お言葉に甘えて。有難く使わせてもらうよ」
 セバスチャンにどうもと頭を下げつつ、しいなにとって半仕事場と化している部屋へと入りかけて――その場から動いていない男の名前を呼ぶ。言い忘れたことがあったのだ。
「ありがと。悪いね」
「おうよ。しっかりあったまってこいよー」
 ひらひら手を振って階段を降りていく姿を確認し、ごゆっくりどうぞと頭を下げる執事にやはり同じく礼を返して、しいなは冷えた体を続き部屋へと駆け込ませた。





 バスルームから部屋へと戻ると、ひんやりとした空気が肌に触れた。
 きっと、温まれと言われたせいで、普段はさほど長居をしないバスタブに随分長く浸かっていたせいだろう。額から落ちかけた水滴をタオルで拭き取りながら、しいなは窓辺へと歩み寄った。
「まるで嵐だね、こりゃ」
 戸締りのされた、壁だって薄くはないこの邸の中でも、叩き付けるような雨音が耳に届いている。ちょうど良いタイミングでメルトキオに戻ってこれたんだろう、自分たちの幸運さにしいなは口許をふっと緩めた。
 ちら、と後ろを振り返る。部屋のドアが開く気配も、廊下に人の気配もない。部屋の主もゆったりと湯船に浸かっているのだろう。
 しいなは再び窓の外を見やった。景色は線状のフィルターをかけられたようにけぶっている。
 指紋がつくかなと気にしつつ、しいなはそっと窓ガラスに指を触れさせた。冷え冷えとした感覚が指先から神経を通り、脳髄へと届く。熱気でぼんやりしていた思考が、すっとクリアになっていくようだった。
 指先に痺れるようなものを感じ、ガラス面から手を引きかけた、その瞬間。
「……!」
 しいなの視界が白く染まった。
 まばたきする程度の僅かな時間。何が起こったのか――今目の前には先ほどと変わらぬ景色がある。否、ぼんやりと全体的に薄白んでいるかもしれない。
 ずどん、と地面だけでなく空気を揺るがすような重く鋭い音が聞こえて数秒後、
「……あ」
 しいなは自分が息を止めたままだったことに気付いた。全身が何故か硬くなっている。
 幾度かまばたきをして、耳にゴロゴロという特徴的な音を捉えてようやく、ああ雷か、と理解した。
「そりゃ嵐にもなるはずだよ」
 何気なく発した声は何故か弱々しかった。おかしいなと思いながら、――これも何故だかはわからなかったが――しいなは窓から目を離せぬまま、ゆっくりと後じさろうとして、
「――……、っ」
 また光った。
 それを理解して、次に目を開いたとき、目の前には黒々とした嵐ではなく、赤い毛並みの揃った絨毯があった。
(あれ)
 どうしたんだろう――何故自分は床にうずくまっているのか。
 耳がじんじんして雨音が聞こえない。でも嵐の感触はすぐ側にあった。ごろごろ。ごろごろ。

 がくがくと――心が、揺れる。





 ゼロスは、ドアを開いてからノックをしなかったことに気付いた。
 だがすぐに、そりゃあ自分の部屋に入るのにノックをする習慣はないわけだからと、彼としては至極真っ当な理由を思いつき、そのまま普通に入る。
「お待たせハニー!」
 後ろ手でドアを締めながら室内をきょろきょろ見渡し、
「……って、まだ出てないのか」
 片手を高く掲げたポーズをへろへろと崩しながら、ちぇー、と舌打ちはせずに言葉で言った。
 随分長く入ってるんだなと思いつつ数歩歩みを進めたところで、彼は目を見開いた。驚きで立ち止まる寸暇も惜しく、転げるようにして窓辺へ走り寄る。
「おいっ、しいな!」
 頭を抱える形で床にうずくまった彼女を強引に抱き起こす。その途端、窓の外から強い光が差し込んだ。ほんの一秒足らずのそれで、ゼロスは事の大半を理解した。
 今度こそはっきりと舌打ちして、彼女に光が見えないよう自分が窓側に回る。
「しいな。しいな!」
 両耳を塞ぐ手のひらと、濡れた髪に突き入れられた指先。そのどれもが硬直して、かたかたと僅かに震えている。
 ゼロスは片方ずつ、半ば強引に、今にも掻き毟りそうな指を頭から引き剥がした。元の位置へ戻ろうとするそれをきつく握りこんで動きを封じる。
 そうして両手を固めてから、ゼロスはゆっくりと、彼女の名前を呼ぶ。
「しいな」
 手の中の柔らかな肌は、風呂上りだからだろう、瑞々しい弾力性を備えていたが、ぞっとするほど冷たかった。
 掴んだ指先を素早く――熱を与えるように――握り直す。呼びかけながらそれを何度も繰り返す。
「しいな! 聞こえてるか、しいな!」
 両手を握ったまま軽く揺さぶって、体全体に振動を与える。するとようやく、彼女から反応が返った。ゆるゆると頭が上がってくる。
 視線が合う前にゼロスは己の表情を繕った。そうして、道端で会った時のような何気ない口調で話しかける。
「よう、しいな」
「……ゼロ、ス……え、なんで」
「そのままでいいから、ゆっくりな。指先、集中して」
「ぁ、うん……」
 ゼロスはきつく握りこんでいたしいなの手を、今度は覆うようにして優しく包んだ。じわじわと、冷たさが引いていくのを感じる。
 それはしいな自身も同じだったのだろう、だんだんと手から、その全身から力が抜けていく。真っ青だった顔にも、僅かながら赤味が戻ってきた。
 ぼんやりしていた焦点が合って、ぱっちりとした瞳がゼロスを映すのを確認して、
「よし」
 ゼロスの手がしいなのそれに絡みついた。
 数秒遅れて、温かな指先がゼロスの指の付け根に触れる。弱々しくではなく――優しく、握り返すように。
「落ち着いたか?」
「……ああ、うん。ごめん」
「謝るなって。大したことしてねえんだし」
「でも、心配……かけたんだよ、ね。だから、ごめん。それから、ありがとう」
「どういたしまして」
 言って、ゼロスは繋いだ手に軽く力を込める。
「今なら出血大サービスで心ゆくまでの抱擁とあっつーいキッスもつけるけど?」
「そいつは謹んでご遠慮させてもらうよ」
 けちー。子供のように口を尖らせるその様にしいなは僅かに苦笑して、触れ合う手のひらを離す気が起きぬまま、頬が染まるのを自覚した。
 下方へ俯かせた視線を上げることなく、口早に呟く。
「……その、代わり」
 とすん。
 そういえば髪を乾かしていなかった――と、気付いたところで遅かった。
 今更引くに引けず、ゼロスの胸元に己の頭頂を押し付けるようにして、しいなはもごもごと続ける。
「もうちょっとだけ、こうしといてくれると、……その……助かる、かも」
 ああ今きっと耳まで赤いんだろうなとかしいなが後悔を始めていると、
「りょーかい」
 あっさり承認の言葉が降ってくる。しいなは感謝の言葉を返し、目を閉じる。
「てゆっかしいな、これなら別に、ぎゅーっと抱擁でもいいんでない?」
「それ以上のことしそうだから却下」
「えー。しいなのいけず」
「悪かったね」

(……だって、甘えるってことに慣れてないんだから、しょうがないじゃないか)

 言えるわけのない言い訳を心中で呟いて、触れている場所から伝わってくる温度に、しいなはほっと安堵の息を吐いた。







 だいぶ前にMさん(仮名)の鶴の一声がきっかけで出来た話。Mさん(仮名)いつもありがとう。
 当初はもっと軽めの症状を考えてたはずが気が付いたらなんかこっぴどいことになってました。しいなさんごめん。

(2006/06/05 up)

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