目を覚まして半身を起こし、そうして気付いた事実を口にする。
「……休みなんだった」
 首を回して時計を見やる。久方ぶりの休日、普段と変わらぬ時間に起きてしまったことを嘆くべきだろうか。だが二度寝する気は微塵も湧いてこない。
 確か、そろそろ休んだ方がいいと言い出したのは隊長だった気がする。それもクローシェ様にルカ、タルガーナを初めとする御子付きの側近達、部隊長クラスの騎士達が揃っている場での発言だった。こちらから断らせないための計算だったに違いない。
 まず同意したのはルカだった。そうだよクロアずっと休んでないもの! と大きく頷かれたのだが、だったら御子の二人もろくに休みなど取っていない。
 そう反論しようとしたら、クローシェ様が即座に厳命を下してきた。続いてタルガーナに、今後の予定で自分が抜けても問題なさそうな日はいつかを問い質す。書類や手帳の一つも調べることなく、そうですね、と相槌を打つ間に脳内検索を終えたらしいタルガーナは三日後の日付を告げてきた。つまり今日だ。
 隊長もその場で各部隊長に指示を飛ばし、ですが、の一言も挟む間もなく、初の休暇を与えられることとなったのである。
 ベッドから降り、テーブルの上に重ねた書類の一番上にある小さな紙片を手に取った。
「……夕方から、だったな」
 本日ラクシャクで行われるルカのコンサートのチケットである。強制的な休暇を命じられた翌日、ルカから渡されたものだった。
「その、もし他に用事とかなかったら見に来てくれるかな。あ、でも始まる前に楽屋とか来たらだめだよ? だってその日クロアはお休みで、私の護衛はしてないんだから、関係者じゃないし。普通にお客さんとして来てねっ。……そ、それでね? 終わった後、楽屋に迎えに来てくれたりすると嬉しいなーって、えへへ。……そしたら、一緒に帰ろ?」
 明日のルカのスケジュールは御子としての公務で占められている。早いうちに宮殿まで送り届けるべきだろう。そう、宮殿に居さえすれば多少の寝坊ぐらいなら何とかなるものだ。
「よし」
 色々回想したり思案したりしつつ眺めていたチケットを置いて、まずは顔を洗いに行くことにした。

 一通り洗濯や部屋の掃除などを終え、いつもより念入りに訓練まで済ませて、早めの昼食を取る。だが開場までは時間があった。
 いっそ休日らしく昼寝でもしてみるかと思ったが、万が一寝過ごしたりしては元も子もない。そもそも眠気がなかった。
 ちなみに書類に目を通すことは禁じられている。口約束レベルのものであるが、もし休暇に仕事を持ち込んだ場合、命令違反とみなしペナルティを与えます、と言われてはさすがに手が出しづらい。ペナルティの内容が――三ヶ月ほどルカを私の部屋に寝泊まりさせます、といった無情な――内容だけに、尚更。
 特に用はないが、街でもぶらついて時間を潰してくるべきか。
 窓の外を眺めてみる。今日も天気は快晴で、出かけるには丁度良さそうだった。
 穏やかな時間、穏やかな光景。
 だがそれらを感じ取る度に、どこか胸の奥がちり、と焦げ付くような刺激を訴えてくる。このままではいけない――焦りともつかない心地が、立ち止まることを拒絶して、ただひたすらに動くことだけを促してくる。
 ルカは今頃会場に入ってリハーサルでもしているのだろうか。いや、昼時だから皆で昼食に出ているかもしれない。クローシェ様に頼み込んで、普段自分がついている時の倍の護衛をつけてもらった。だから心配はない。
 ましてや会場はラクシャクだ。ルカの味方ばかりが集う総本山といってもいい場所で、もはや何を心配することがあるのか。
 そう、いくら自分に言い聞かせても、内心の違和感が拭えない。
 何を焦っているのか、その理由を考えても答えは出てきそうになかった。何気なく吐き出した息がやたらと重い。
 そういえば、客としてコンサートに行くのはこれが始めてかもしれない。
 まあ、ひとまずチケットを持って行けば問題はないだろうが――
(……花束、か)
 通常、護衛として会場に居るときは舞台袖か舞台に近い客席の端で目を光らせているのだが、歌い終えたあと花束を持った客が舞台に駆け寄るシーンを何度も見ている。
 受付で回収している場合もあったように思うが、ルカのコンサートはどこぞのCS内での学園祭ライブのような激しいものではないので、皆花束を持ったままルカの歌に聴き入っていることが多い。
 せっかく客としてコンサートに出向くのだ。一般客らしいことをするべきだろう。
 花屋への寄り道を決め、とりあえず出かけることにした。



 ラクシャクの会場へ着くと、まだ開場には時間があるというのに結構な人が集まっていた。
 パスタリアから来る途中は妙に目立ってしまった花束も、ここでは当たり前の光景として映るようだ。そのことに些かほっとしながら、入場待機列らしきところに並ぶ。
 舞台袖から観客を見る分には、ルカのファンは年齢層が幅広いように感じたのだが、周囲の大半はは若者だった。確かにチケットは指定席制だから、開演までに来ればいいだけの話である。
 つまるところ、それだけ熱狂的なファンがいる、ということなんだろう。まさか自分のように他にすることが見当たらなくて早い時間に来た、なんて人間が他にもいるとは思えない。
 そんなことを考えつつ、前に並んでいる集団が何やら盛り上がっているので、耳をそばだててみる。
「そういえばさ、ルカ様がラクシャクでやってくれるの久しぶりだよね」
「うん、ミニライブみたいなのは何度かやってくれてたけど、こういうちゃんとしたのは本当に久しぶり」
「おかげでチケット、最前列のとかだいぶ高値になってるらしいよ」
「あー私さっきダフ屋に声かけられたもん。ここに来てチケット余ってる人とかいないよねえ」
「いないいない。それに、ラクシャクの人がほとんど買い占めたって噂もあるよ?」
「え、地元びいき? ずるーい」
「でもファンクラブの先行と、一般が抽選が半々って聞いたよ。買い占めるのって無理じゃない?」
「そうなの? まあどっちでもいいけどね、私達は聞けるんだし」
「だよねえ。今日の曲目って何かなあ、楽しみー」
 確かに、熱狂的なファンのようだ。ラクシャクの人達が買い占めているというのは妙なリアリティがあって怖いな。
(……それにしても)
 土地柄というものもあるだろうが、こうもルカに対して好意的な言葉しか聞こえないというのは、何だかひどく胸が締めつけられる。
 それは別に苦しいわけではなく――なんというのか、……眩しいものを見るような心地、とでも言えばいいのか。
 本来掴めないものを気軽に掴まされてしまい持て余すような、落ち着かないが悪くはない、そんな感覚。うまく表現ができない。
 その正体不明の感覚に翻弄されてしばらく、開演時間がやってきた。


*****


 拍手だったものが一定のリズムを刻む手拍子となり、アンコール、のかけ声がそれに追随する。
 やがて舞台袖から再び姿を現した今日の主役に、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。
「えへへ、みんなありがとう! それじゃ、アンコールにお応えして……やっぱり、この曲で」
 ルカがそっと後方の暗がりに目配せすると、聞き覚えのあるフレーズが流れ出した。わあっ、と会場から歓声があがる。
 それはルカの持ち歌の中で、最もよく知られているものだった。ここラクシャクの軌道広場で、初めてルカが歌った歌。
 控えめな音量で前奏部分のワンフレーズが繰り返される中、ルカははにかむような笑顔で続ける。
「みんなも一緒に歌ってくれると嬉しいな。それじゃ、今日最後の歌――『Hartes ciel, melenas walasye.』」
 曲名を言い終わって、繰り返されていた伴奏が止む。
 しん、と一瞬静まりかえる中、ルカは両手で包むように持ったマイクに何かを囁いた。
 小さく口早に紡がれたのはヒュムノス語のようだが、不意に言われたせいもあってうまく聞き取れず、意味の解釈までには至らない。
 おそらくレーヴァテイルなのだろう、場内ではっとしたようにルカを見たのは全て女性だった。
 そうして顔を上げたルカと目が合った――ように思ったのは、気のせいだろうか。
 ふわりと微笑んだルカが、すっと両目を閉じ、澄んだ声が静かに響き出す。

 ――独りきりで歩いた 当たり前の毎日

 まだミント区が世界の全てだった頃、独りきりで歩いてゆこうとするルカを護りたいと思った。
 そのために強くなろうと道場に通うことを決めた。
 ほどなくして、それだけでは足りないと気付いた。世界は広く、そして容赦のないものだと知った。どんなに強くなろうとも、世界相手にはどうにもならない。ルカを護りきれない。
 ならば、世界を変えるしかない。俺達のメタファリカを作る――そう親友と誓い合ったとき、自分たちにはそれが可能なんだと、根拠もなく信じていた。
 だが世界はそんな生易しいものではなかった。パスタリアに渡航し嫌というほど現実を知らされ、夢から遠ざかる代わりに、いつしか目の前の小さな存在を救うことに注力するようになった。
 大を得るために小を見捨てるようでは、そんな途方のない大きすぎる夢など叶えられるわけがない――ありきたりな言い訳で後ろめたい何かに蓋をして、けれどいつか必ず叶えるという意志だけはそのままに――

 ――自分を護るため 鍵をかけて生きてた

 護りたいと思ったものが、どんな想いでいたかも知らずに、数年を過ごした。
 強くなって、騎士になって、メタファリカを実現させたら、ルカもきっと幸せになれる。
 相談もせず一人で考え抜いて出した結論。そうして抱いた夢が、どれだけ自分勝手で自己満足なものであったことか。
 ルカのためと言いながら、結局は自分のためだった。ルカの幸せがどんなものかを考えずに、思い込んで決め付けて、幸せそうに笑うルカがいるならそれでいいのだと――結果、「いい」のは自分だけであると、どうして気付けなかったのか。

 ――ありのままの言葉で 語りかけよう

 もっと、思っていたことをきちんと言葉にできていたら良かったのだ。
 現状あるべきものを「そういうもの」だと決め付けて、自分がただ黙っていることが一番うまくいくのだと、そう思い込んでいた。否、思い込もうとしていた。
 そのことが、ただ上辺だけの、何もわかっていない、わかろうとしない関係を生んだ。
 結果として、そのことがルカを苦しめた。悲しませた。
 護ろうとしたものを、傷つけていた。

 客席から眺めるルカは、舞台の照明のせいもあるのだろうが、ひどく眩しく見えた。
 実際に手を伸ばしても届かない、どこか遠い存在に感じられるのは、普段控えている舞台袖と客席の、舞台までの距離の差によるものだろうか?
 自然と眇めた視界に、偶々正面を向いたルカの笑顔が飛び込んでくる。目が合った、と思うのは勘違いだろう。今自分は、アンコールとあって総立ちになった観客に埋もれている。
 ただ――そう勘違いしそうになった瞬間、ルカははにかむように笑い、マイクを持たない左手を客席に向けて伸ばした。

 ――明日は繋がるよう

 明日は交わるよう――観客が斉唱する声で、持ち上げかけていた右手が我に返ったかのように元の位置へと戻る。
 知らず握り込んだその手は、結局、最後まで何も掴めはしなかったのだ。

 ――願い続けたら届くもの

 そう。
 願い続けたルカは大陸を紡ぐために世界と繋がった。否、世界を一つにした。
 皆の――何より自分の――夢だったメタファリカを、実現したのだ。

 そして今、ルカはこの大勢の観客と繋がっていた。
 手拍子を合わせ、最後のフレーズを幾度となく繰り返し、ラクシャクでのコンサートは大盛況の中幕を下ろした。

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