「ちょっとそこのあなた」
 誰もいない廊下を歩いていた彼は、その声が自分にかけられたものと判断して足を止めた。
 進む先には誰もいない。後方を振り返るが、そこにはやはり誰もいなかった。
「……?」
 空耳だったのだろうかと訝りながら、念のためと周囲を見渡したところで、
「こっちです!」
 小声で、しかし痺れを切らしたような声があがった。見れば、柱の影から手招きする細い手がある。
 それは見るからに女性の手で、そもそも呼びかける声も女性以外の何者でもなく、そういえばどこかで聞いたような気がするがきっと気のせいだろうと彼は何の気なしにその柱まで近づいていき、
「ひえっ!?」
 恐れ――ではなく畏れのあまり、騎士としてはずいぶん情けない悲鳴をあげた。
「ちょっと、静かになさい!」
「は、はっ!」
 反射的に直立不動で礼の姿勢を取る。
 二人の関係性から鑑みるにその儀礼は何ら間違ったものではない。しかし何故か、相手の機嫌はさらに損ねられてしまったらしい。
 きりり、と整った柳眉を吊り上げ、わりと乱暴に彼の腕を掴んで引っ張り始めた。
「いいから早く隠れなさい!」
「はっ!!」
 相手の小声につられる形で声量を落としつつ、それでも姿勢は崩せぬまま、彼は柱の影へと押し込まれた。
「最初に言っておきますが、ここでのことは他言無用です。いいですね」
「はっ」
 相手の顔を間近で見た彼は、とりあえず太ももを力いっぱい抓ってみた。
 どうも夢ではないらしい。だがこの現実は悪夢に近いような気もする。
(っこ、これは一体……)
 一介の、それも彼のようなペーペーの騎士など、話すどころかお目通りすることも適わないほどの尊い存在。
 伝説が曰く、「愛の種子賜りし御子」――彼ら騎士隊の絶対なる主君、クローシェ・レーテル・パスタリエその人が、目の前で真剣な表情を浮かべているのだ。
 真っ直ぐな視線はともすれば睨まれているかのよう。蛇に睨まれたなんとやらとはこういうことだろうか、と彼は背中に冷たい汗が伝うのを感じていた。
「……」
 狭い空間で、クローシェが醸し出すあらあゆる雰囲気が彼を包み込む。そこでの沈黙はあまりにも重く、彼は耐えかねて掠れた声をあげた。
「あ、あのクローシェ様、一体、何事でしょうか……?」
「あなたに聞きたいことがあるのです」
 落ち着き払った一言に、彼はごくりと生唾を飲み込む。
 重苦しい、どちらかといえば詰問に近い口調で、彼女は問いを発した。
「クロアについて、あなたが知っていることを全て話しなさい」
「は、はっ! ……あの。クロアとは、御子室付きのクロア・バーテルのことでしょうか」
「そうよ」
 他に誰がいるのとばかりに睨み返され、彼は「素朴な疑問」という名の失言を全力で後悔した。
「あ、えー……そうですね、騎士隊のエースとして名高いあのクロアですよね。レグリス隊長からの信奉も厚いと聞いております」
「他には。人となりとか、そういったことを聞かせて頂戴」
「人となり、ですか」
 続いた質問は彼を少なからず面食らわせ、どう答えたものかと悩ませた。
 やがて嘘を言っても仕方がないと諦め、申し訳ないのですが、と切り出す。
「実は、自分は彼とチームで組んだことがなく、ほとんど話をしたことがありません。ですので、私がお話できるのは人づてに聞いた話ぐらいなのですが、それでもよろしいでしょうか」
「あら、そうだったの……まあ、それでも構いません。話しなさい」
 は、と小さく礼の姿勢を取ってから、彼は再び口を開いた。
「最近よく聞くのは、以前と比べて丸くなったという話です。以前は、必要なこと以外は一言も喋らないような状態だったと」
 クローシェはそれで、と目で先を促す。
「そういった点でチームとしてやりにくい面もあったそうですが、実力がそれをカバーしていたようで。クロア一人に任せておけば後は楽ができると、彼と一緒の班組みになるのを喜ぶ者もいました」
「……それは、レーヴァテイルも含めてのことかしら?」
 クローシェの声のトーンが一段下がったように思えたのは、気のせいではない――彼女の眼光がさらに強くなったのを見て、彼は逃げ出したい心地とともにそれを理解した。
「ま、まあ……その、はい。楽ができるという理由ではなかったようですけれど」
「当時からクロアは彼女がいると公言していたと聞いていますが、あなたは知っていて?」
「それはもちろん。レーヴァテイル達も知っていたはずです。それでもアタックしようとした者もいたようですが」
「それでクロアはどうしたのです」
「誰一人として、まったく相手にされなかったそうですよ。たぶん、彼と仲良くしていた女の子なんて、ココナちゃんぐらいしかいないんじゃないですかね」
 話が下世話なものになっていたせいか、随分とくだけた口調で話してしまっていた。言い終えてからそのことに気付き、彼の顔がさっと青ざめる。
 だが対するクローシェはそんなことは気にならなかったのか、何事か考え込みながらぼんやりとした相槌を打つのみだった。
「……そう」
「あ……あの、自分がお話できるのはこれくらいで」
「ありがとう。大変参考になりました。それから繰り返しますが、このことは他言無用です。万が一誰かに話すようなことがあれば」
 クローシェはわりと据わった目で、腰の剣に手をかけてみせる。
「は、はっ! 何があろうとも他言はいたしません! 墓まで持って行きます!」
「よろしい。では速やかに持ち場へ戻るように」
 カツコツと足音を響かせるクローシェの姿が見えなくなるまで、彼は敬礼のポーズを崩せぬままだった。



(もう、全然わけがわからないわ)
 歩きながら、クローシェは苛立ち混じりに悲鳴をあげた。
(聞けば聞くほど彼のことがわからなくなりそう)
 自分が知っている彼は、彼のほんの一面にすぎない。
 それは自分と彼の立場の差が――地位としても、ある意味家族としても――そうさせているのであって、自分にはこれ以上視点を広げることは叶わないだろう。
 だから、日常から彼に接する者に対して聞いて回ってみた。彼のことをよく知る人物――家族や隊長や自称親友――では贔屓目が入るに違いなかったから、彼の同僚とおぼしき騎士を片っ端から捕まえては詰問した。
 誰もが口を揃えて言ってきたことがひとつだけあった。
(メタファリカを紡いでから、彼が変わったということ)
 それは彼の、ひいては自分や姉の成長と考えていいだろう。メタファリカを巡る一連の事件の中、彼は自分らと行動を共にしていた。だから、彼と行動していなかった同僚たちは、彼が変わったと言っている。それはわかる。
 けれど、彼の人となりについて話した者は誰一人としていなかったのだ。彼らが言ったのはすべて、「変わる前」の彼の人となりについてのみで、聞けたとしてもなにやらあやふやな意見ばかりだった。
 はあ、とクローシェは大きくため息をついた。
 地位と権力を活用しつつこそこそと嗅ぎ回るなど、自身のやっていることが褒められたものでないことは自覚している。けれど。
(反対したいわけじゃないのよ……ただ、賛成できる確証が欲しいだけ)
 他にうまいやり方も見つからない。何より、彼女が手放しで相談できる相手には、話題が話題だけに話を持ちかけるわけにもいかない。
 つまり、もうしばらく探偵ごっこのような真似を続けなければならないらしい。
 そのことにクローシェは再び大きく息を吐いた。

 そうして数日後、実らぬ努力に諸々を諦めたクローシェは、半ば自棄気味に開き直ることにした。

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