――それは、おそらくは一番古い記憶。



「いいかい、譲。よくお聞き」
「何? ばあちゃん」
「お隣の望美ちゃんが居るだろう? お前はあの方を守っておあげ」
「あのかた? 望美ちゃんのこと?」
「そうだよ。お前は男の子で、望美ちゃんは女の子なんだから、……何物からも守ってやるんだよ」
「わかった。望美ちゃんはぼくが守る」


 このとき自分は何もわかっちゃいなかった。
 ただ、自分を――ともすれば兄よりも――可愛がってくれる祖母の言うことは正しいことだと漠然と信じていたし、お隣に住む一つ上の女の子を守ることに何の違和感も感じなかったから。
 これは「良いこと」なのだ。

 「春日望美を守る」。
 その日から有川譲の中に、行動指標として定義づけられた。
 自覚することなく、ひっそりと。

 記憶の奥底に埋もれたただ一つの道標。指針。使命。大事なこと。何よりも正しいこと。
 ――あのひとを、守ること。



*****



 後から後から涙がこぼれてくる。
 泣いたところでどうにもならないことは、子供の自分でもよくわかっていた。しかし止まらない、止めることができない。
 辛いことを我慢するには、まだ自分は幼すぎたから。
「泣かないで」
 そう言う相手こそ、泣きたい気分だろうに――無理やり作った笑顔はときおりひくついている。何度も繰り返される呼びかけにも、だんだん震えが混じってきた。
「ごめんな、さい……ぼくが、ぼくが……」
「私はへいきだよ」
 頑ななまでのその態度がよけいに痛々しく感じられる。
 靴と靴下を脱いだ素足。小さな両手が隠す場所は、その指の間からしか覗けないとしても、赤く腫れているのがわかった。
 動かさなくても痛いに違いない。唇を噛む仕草が多くなったのも、その裏づけだろう。
「……ずるー! 譲ー、どこだー?」
 聞き覚えのある声に二人で顔を上げる。彼女が何かを言う前に、急いで大声を張り上げた。
「お兄ちゃん、ここだよお兄ちゃん! 早く、早く来て……!!」
「そこか? ったく、手間かけさせやがっ……」
 ひょい、と河原の上からぼさぼさの頭が覗いた。そしてすぐに表情を強張らせる。
「望美! お前、どうしたんだ」
「将臣くん! えっと、すべっちゃって……」
 そこから、と兄が覗き込んでいる場所を示す。それ以上は聞かなくても状況を察したらしい兄はちっ、と舌打ちした。
「譲、お前は大丈夫なのか?」
「あ……う、うん」
「よし。望美、悪ぃけどもうちょっと待っててくれ。誰か大人を呼んでくっから」
「うん、待ってるね」
 にっこりと。
 何の不安も感じさせない、安堵の笑みを浮かべて、彼女は頷いた。自分はただ、その光景を見守るしかできない。
 現状を打ち払うべく行動する兄と、それを信じて、嬉しそうに――待つ、彼女とを。

 覗いていた頭が引っ込むと、駆けて行く音が遠ざかっていった。
「よかったね、譲くん。これでもう大丈夫だよ」
「……っ」
「譲くん? あっ、本当は、どこか痛いの?」
 居た堪れなくなって目を伏せた自分を、痛みを堪えたものを勘違いしたらしい。違う、と大きく首を振って、強く強く唇を噛んだ。
 ――確かに、痛みは堪えている。
 でもそれは外傷じゃない。薬を塗ったり、お医者に診せて治るものじゃない。
「……ほんとうに、ごめんなさい……」
 震える声でか細く言ったそれは、彼女の耳には届かなかったようだった。
「見て、空があんなにきれいだよ」
 言われるままに見上げる。青く高い空はこちらを見下ろして、ちっぽけな自分をあざ笑っているかのよう。

 やがて兄が呼んできた大人たちに自分たちは助けられた。彼女はだいじょうぶ、と言いながら近くの病院に車で送られていった。
 呆然と見送る。何もできなかった自分がやったことといえば、彼女に怪我を負わせただけで。そんな自分はこの通りぴんぴんしていて。
(ぼくが……ぼくがもっと、力があったら。そうしたら)
「ほら、行こうぜ」
 兄は一言促しただけで、さっさと先に歩き出した。
 こっちがついてくるついてこないはもう関係ないのか、振り向くことも再度促すこともしない。
 ――それとも、自分は兄についていくしかないことを、知っているから、だろうか。
「……っ」
 彼女を乗せた車はもう見えなくなっていた。ここに立ち尽くす理由は、確かにない。
 結局、足早についていく。見れば兄の背中はずいぶん小さくなっていて、勝手に歩幅が大きくなった。
 今の自分にはもう、兄に従うことくらいしかできない。何故ならそれが一番、彼女に迷惑をかけない方法であるから。
 兄は小さな頃からひどく自分勝手な性分だった。子供の目にもいいかげんに映るのに、けれど兄がやったことは大抵うまくいった。過程や手法はどうあれ、結果的にそれで良かった、ということは度々あった。
 だから――心のどこかで、無条件に兄を信用していたのだろう。



 それがますます、自分の無力さを痛感させることになったとしても。
 このこっぴどい現実を目の当たりにしては、それを認めないわけにはいかなかった。

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