「譲くん、なにしてるの?」
顔を上げると、小さな花壇の先にある家同士を隔てる柵から、彼女がこちらをのぞきこんでいた。
「おや望美ちゃん、こんにちは」
「こんにちは、スミレおばあちゃん」
日曜の朝。祖母が庭の手入れをするというので――実際それほど興味はなかったのだが、他にすることも見当たらず――、一緒に庭に出た。
彼女が声をかけてきたのは、今日は種を植えようか、とスコップで土をならし始めた矢先のことだった。
「今から種を植えるのだけど、望美ちゃんも来るかい?」
「うん、行くっ」
元気よく返事をして、ぱたぱたと駆け出す。一分もしないうちに彼女はやってきた。
来たよ、と息を切らせて告げられて、祖母はこの上なく目を細める。そんな急がなくても種は逃げないよ、と嬉しそうに返した。
自分とは反対側の祖母の隣に腰を下ろした彼女は、目をきらきらさせて訊ねてくる。
「何の種を植えるの?」
「望美ちゃんが好きな花だよ」
「私が好きな花? なんだろう……」
彼女は難しい顔で首を傾げている。自分もまだ何の種だかを聞いていなかったので考えてみるが、さっぱり見当がつかない。
記憶を探るも、彼女が「これが好き」と名言していた花はなかったように思う。自分が知らないところで、祖母と話でもしたのだろうか。それとも。
(兄さん経由で伝わったのかな……)
祖母と一緒にいるのは圧倒的に自分の方が多いのだが、兄は兄で祖母とうまくやっているらしかった。
いつだったか、まるで茶飲み友達のように、二人が縁側で話をしているのを見たことがある。一人は茶菓子を貪ってばかりのようだったが。
そんな兄が自分へ、彼女の情報をリークすることはあまりない。といっても、大抵は三人一緒に行動するので「二人だけの秘密」という状況は作りにくいのだけれども。
「うーん……何だろ。わかんないよ」
「ふふっ、じゃあ秘密にしておこうか。時期がくればわかるからね」
えー、と不満の声があがる。
慌てて「待った」をかけて、なんだろなんだろ、と一生懸命考える姿はこちらの口元を緩ませるに十分で。
「ばあちゃん、ヒントくらい出してもいいじゃないか」
「おや、譲もわからないのかい?」
「え、その……だ、だって望美ちゃん困ってるじゃないか」
図星を突かれたことにこちらも慌てたが、宿題の時以上に頭を使う彼女がそれに気づくことがなかった。ほっとしたような、ちくりと胸が痛むような、相反する感情が心を支配する。
ただこれはいつものことだから、……仕方のないことだから。
彼女が自分を気にすることなんて、勘違いか体を労わる時くらいしかないのだから――兄を相手にした場合と、違って。
「そうだねえ……」
祖母は微笑みを消さぬまま、軽く思案する。
「秋咲きの一年草だよ」
「あきざき?」
「秋に咲くってことだよ、望美ちゃん。一年草っていうのは、種をまいてから一年以内に花が咲くって意味なんだ」
「譲の言うとおりだね。……わかったかい?」
「秋に咲く花、なんだよね。うーん……秋のお花ってなにがあったっけ……」
再び首を傾げた彼女に、これはおそらく駄目だろうな、と思った。
彼女はどちらかというと頭の回転は緩やかな方だ。無論それは頭が悪いという意味ではなく、主に「鈍感」という意味で。いつもいつも、物事に気づくのは人よりも一歩か二歩遅れている。愛すべき天然、とでも言えばいいのか。
「譲はわかったかい?」
「……合ってるかどうかは、わからないけど……たぶん」
脳裏にその花を思い描く。線のように細い葉を持つ、淡いピンクや白の花びら。そういえば、この庭では毎年咲いていたのではなかったか。
花弁に止まったトンボの目を回そうとゆっくり近づいた兄と、それを見守る自分と彼女。あと一歩というところでトンボに逃げられ、盛大に悔しがっていた兄を宥めるように、
「でもこのお花はかわいいよね。たくさん咲いてたらきれいだろうなあ」
少しだけ幼い彼女の笑顔がフラッシュバックする。
――そうだ確か。
こんな小さな個人の庭ではなく、もっと広い公園ほどもある場所でいっぱいに花が咲いていたら、彼女はもっと喜ぶだろうか。そう思って、この近くで花畑とかはないのかと祖母に聞いたような気がする。
と、そこまで思い出したところで突然、かくんと視界が沈んだ。頭頂部に置かれた手を、嫌悪と思われない程度に押し返しながら相手を見上げる。
そうして合わさった視線は、どこか辛そうにも見えて。
「ばあちゃん?」
祖母は何も答えずにただ目を細め、頭の手にゆるく力をこめるばかりだ。
「あっ、譲くんわかったの? ねえ、何のお花? 教えて」
「駄目だよ。自分で考えなくちゃ」
こちらへ身を乗り出そうとする彼女を、祖母はやんわりと嗜めて、
「大事なことは、自分で気づくことさ。……たとえ、それがどんなに遅かったとしても」
望美ちゃんなら、大丈夫だよ。
そう続けて、今度は彼女の頭を優しく撫でる。
「? うん」
不思議そうな二つの顔に囲まれて、祖母はただ複雑そうな笑みを浮かべ続けた。
「はい、これでおしまい」
祖母は種をまいた場所を軽くスコップで叩き、作業の終了宣言をする。
「秋になったら咲くんだよね。楽しみだな」
謎解きを早々に諦めたらしい彼女は嬉しそうに呟いた。気長に解答を待つことに楽しさを見出したのだろう。
実に彼女らしいマイペースっぷりだった。
自分はその独特の雰囲気がとても好きで、側に居るとまるで何か暖かいものに包まれるような、どことない安心感があったのだ。
同時に、それはひどく脆くて儚くもあった。何故なら彼女は小さな女の子であり、祖母の言うように男の子である自分などが守ってあげなければならない存在であるから。
そう考えると彼女はとても不思議な存在だった。
数字の上では年上だが、放っておくと何をするかわからない、手のかかる妹みたいな面と。
兄とはまた別種の、何故か信頼のおける、頼もしい姉のような面と。
そうした相反する属性が同時に存在し、絶妙のバランスを保っている。それは自分の理解を越えたものだ。
だから、不思議というよりはむしろ不可解というべきなのかもしれない。
自分は、自分のできることとできないことを知っている。その境界線をわきまえているからこそ、自分にできることを最大限に活用することができる。
逆に、そうすることしか知らない自分には、先の見えない、限界すらも見えない彼女、――そして兄――の存在は、本当に理解ができなくて。
だからこそ、惹かれるのだろうか。
近づきたいと思うのだろうか。
兄と同種の彼女に、認められたいと、思うのだろうか。
「ばあちゃん。この花の世話、僕がやってもいい?」
「そうだね、じゃあ譲に任せようか」
「それなら私も手伝う!」
彼女はこれまた元気よく、教室で発言するときみたいに手を上げた。何となく予想できた未来に、自然と口元が歪んだ。
「じゃあ……二人で育てよう。秋になって、この花が咲くまで」
「うん! がんばろうね、譲くん」
きっとこれは、叶わぬ約束となるのだろう。
習い事とか、クラスの女の子と遊びに行ったりとか、一つ下の幼なじみだけにかまっている時間はあまりないはずだから。
ただの口約束。こういうのを、社交辞令、というのだったか。
(……それでも、いいんだ)
彼女が自分と時間を共有したいと願い出てくれた、ただそれだけが嬉しいから。
誰からも見えない位置で、震えるてのひらをそっと握り締めた。爪の先を皮膚に食い込ませるように、心に湧き上がった何かを押し留めるように。
「私、ここの庭大好きなんだ。いつも花が咲いてて、きれいだから」
「そう言ってもらえると、嬉しいねえ」
祖母は顔をくしゃくしゃにして、そっと彼女を引き寄せた。
「おばあ、ちゃん?」
「……ありがとうね、望美ちゃん」
祖母は本当に彼女が好きなのだろう、それは随分前から認識していたことだったが。
この日の祖母もやはり、不可解な面が多かったように思う。
その理由を――推測の範囲でしかないが――知ることになるのは、それから数年も後になる。
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