「譲くん、目、悪いの?」
 唐突に言われて――そういえば、この前の通信簿で視力の欄が小数点以下になっていたのを思い出した。
「確かに視力は落ちたみたいだけど……」
「譲くん、勉強家だもんね」
 えらいよね、と笑顔で覗き込まれれば、そんなことないよと返すので手一杯だ。褒められるのも、笑みを向けられるのも、はっきりいって慣れてない。例えそれが、自分個人に対する特別なものではなく、誰にでもするような言動であったとしても。
 それでも、心臓は跳ね上がる。心が躍る。一縷の望みを期待してしまう。
 ――そんな自分を戒めるのに、いつも必死だった。
「でも何で、急にそんなこと」
「だって席がえで、前の席にしてもらったって言ったから。黒板が見えにくいのかなって」
 普段とんでもなく鈍いのに、時折こうして鋭い指摘をしてくる。
 それも決まって気づいて欲しくない事だったりするのが、誠に不可解な彼女らしいというか。気づいて欲しいことには、一ミリも気づいてはくれないのに。
「まあ……うん、そんなところかな」
 単に、くじ引きで一番前のど真ん中の席を引き当てた奴がひどく嫌がっていたから、窓側後ろから二番目を引き当てた自分と代わっただけの話なのだ。
 あれ以上騒がれたら帰りの会が長引いて、彼女が帰る時間に合わなくなる。兄は友達と約束があるらしいことを登校時に話していたから、うまく時間が合えば二人きりで帰れる――そんな打算的な結果なのだから。
 適当に誤魔化すと、あっさり納得したのか興味を失ったのか、彼女の方から話題を変えてきた。
「そういえば、スミレおばあちゃんは元気? 最近会わないけど……」
「元気だよ。でも腰が痛いって、あまり庭に出なくなったかな」
 庭の手入れも、いつか植えた花のついでに自分がやっている。多分、彼女はそれを知らない。
 きっと、兄が庭に出たりすれば、彼女はすぐ気づくのだろうに。
 無論、兄が庭に居たりすれば、珍しさで目を引くのは当然であろうが――自分が居ても気づかないのは、その風景が馴染みのあるものだからと、結論付けてよいものなのか。
 そうして、ほんの少し思考に潜っていたのがよくなかった。
 視界の端に何かが見え始めたことに、気づいてはいた。けれどぼんやりとしか映らないそれは、もっと遠くにあるものだと思っていた。
 だから、さほど気にも留めず悶々と思考を続けてしまったのだ。
「――あぶない!」
 えっ、と口の形を変えた瞬間、小柄な何かが体にぶつかってきた。突然のことに受身も取れず、しかし背負ったランドセルの重みで真後ろに倒れ、尻餅をついた。
「っなん、だ……!?」
 自然閉じてしまっていた目を開くと、さらりとした髪の毛が見える。見まごうはずもない、いつも後姿ばかりを追っている自分には見慣れてしまった髪質。
 地面にぺたんと座った状態の自分に抱きつくような形で、彼女が覆い被さってきていた。
 重いとかそういった感想は一つも浮かばず、ただとにかく柔らかくて温かいということだけを認知する。何故か胸の中心がひときわ温かい。
「……ったぁ」
 触れ合う温かさが遠のき、彼女がゆっくり身を起こす様をぼんやり見送る。互いの目が合ってもなお、この頭はまともに動いてくれなかった。
「大丈夫? 譲くん」
「う、うん……あ、あの」
「ボールが飛んできたんだよ。あ、ほら、あそこにあるやつ」
 指差す先を見やると、確かに砂で汚れたボールが転がっていた。軟球というやつだろうか、おそらくは。
「だめだよ、ぼーっとしてちゃ」
「ご……ごめん、なさい」
 腰に片手を当て、もう片方の手は人差し指を立てて――たぶん先生の真似でもしているのだろう。その指先が赤いのは、赤いチョークの粉などではなかった。何故なら、粉は液体として指を伝わったりはしない。
 ――そこでようやく思考が覚醒した。
「望美ちゃん、手!」
「え? あ、へーきだよこんなの」
「いいから、見せて!」
 強引に手を取って観察する。てのひら全体、特に指先が砂まみれで、地面を擦ったらしいそこは皮が剥けて血が滲み出ている。
 彼女は近づくボールに気付き、勢いそのまま自分にタックルしてきたのだろう。胸部に受けた衝撃からして、手を突き出したのではなく斜めに肩口から入る形で二人で転倒、その際に片手だけが地面に接触した――そんなところだろうか。
 もう片方の手はこちらの胸部にあった。温かいと感じたのはそのせいか。
「血が出てる……消毒しなきゃ」
「大丈夫大丈夫、そんなに痛くないし」
「駄目だよ、ちゃんと消毒しないと、ええと、化膿とかするんだから!」
 わざと難しい単語を選んで説明したのは、その方が痛そうな感じがしたからだった。きっとこの聞き分けのない幼馴染はそれに怯えて、折れてくれると思って。
 だが逆効果だったらしい。難しすぎたのか、この幼馴染はその単語自体を聞き流してしまった。大丈夫と繰り返しこちらの手をほどこうとする。
 薬で消毒ができなくとも、せめて傷口を洗い流すくらいはするべきだろう。
 だがこの近くに水道が使えるような場所はなかった。自宅まで走って帰っても五分以上はかかる。
「譲くん、本当に大丈夫だから。ねっ」
 どうしたらいいだろう。水道はない。でも消毒はしないと。ああくそ、こういうときはどうすればいいんだっけ。
 消毒の方法は知っていても、それができない場合の対処法など――兄ならば何か機転を効かせられそうだが――たくさん本を読んで、知識を蓄えるくらいしかできない――自分にわかるはずもない。
 そうして一生懸命考えた頭のなかに閃いたのは、祖母の姿だった。
 彼女を守れと言った、あの。
「――望美ちゃん、ごめん」
 思いついた方法に、許可を取ろうにも何と言えばわからず、とりあえず謝罪して了承も得ずにそれを咥えた。ちう、と吸い上げる。
 血を拭うように、痛みを与えないようにとそっと舌を動かすと、鉄っぽい味と土の味が混ざって伝わった。
「譲くん! わ、だめだよきたないっ」
 引っ張る力は意外に強い。けれどそのまま血の味がしなくなるまで吸い続ける。
 やがて、逃げないようにと固定した手はそのままに――そっと口を離した。
「……ごめん。前に僕が怪我したとき、ばあちゃんがやってくれたんだ。消毒って、バイキンを出さないとだめだって――」
 早口で言い訳をしながら、何となく逸らしてしまった視線を上げて、ぎょっとした。彼女は今にも泣きそうに顔を歪めていたのだ。
 そんなに嫌だったのかとこっちが泣きたい心地になった。
 けれど理由がわからなくては慰めることもできないから――覚悟を決めて、どうして泣きそうなのか聞いてみる。
「だって……今、譲くんのお腹の中にバイキン入っちゃったんだよね?」
 ――そんなことか。
 心中で胸を撫で下ろす。
 そうだ、彼女はとても純粋なのだ。自分のように勘繰ったり、裏を考えたりはしない。目的のために、できうる限りの手段を選んだりはしない。
「別に、大丈夫だよ。ばあちゃんもなんともなかったし、僕もなんともないから」
「ほんとに?」
「うん。僕が嘘ついたこと、ないよね」
「……うん」



 頷いたものの表情を陰らせたままの彼女を宥めながら帰り、家に入る所を見送ると急いで自宅へ入った。
 ただいま、と叫びつつ玄関の靴を確認して、リビングへと走る。

 今回のことでよくわかった。
 結局、自分はあの時から成長していないのだ。
 知識をつけようと本をたくさん読んでも。
 兄よりも強くなるべく、まずは足りない身長をどうにかしようと、毎日牛乳を欠かさず飲んでも。
 何も変わっていない。
 努力していたのに、全然足りていなかった。

 お帰りなさいと迎えてくれた相手に、一も二もなく告げる。
 守るつもりで守られていたあの時から、前に進むために。

「お母さん。――眼鏡、作りたいんだ」

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