その夜、寝ようと二階へあがろうとしたところで呼び止められた。
 祖母が部屋のふすまから顔を手だけを出して、ちょいちょいと手招きをしている。
「何、ばあちゃん」
 通されるまま祖母の部屋へ入った。落ち着いた感じの和室。今は雨戸が閉められているが、窓からは手入れされた庭の花壇を眺めることができる。本当は縁側が欲しかったらしいが敷地的に幅が足りず、木製の長いすが窓のすぐ下に置かれていた。祖母は、ここに座って日向ぼっこをしつつ、庭を眺めるのが本当に好きだった。
 布団は敷かれていたが使った形跡がない。祖母は一番風呂をいただいてそのまま部屋に戻ったと記憶していたから、てっきりもう寝たものと思っていた。
 さっきから祖母は箪笥の一番奥をごそごそ探っていた。何だろう、こっそりお小遣いでもくれるのだろうか。
 でもそれなら財布から出せばいいことだろうし、小遣いならば兄と自分へ平等に渡すというのが祖母のやり方のはずで、何もこんな隠れるようにこそこそする必要がわからない。
「ばあちゃん、何探してるの?」
「ちょっと待っておくれ……ああ、あったよ」
 振り向いた祖母の手には、木箱がひとつ。桐製だろうか、小ぶりの焼き物を入れる風な感じを受ける。
 祖母は何も言わずに蓋を開いた。
 中には鈍い光沢のある白い玉がこじんまりと収まっていた。
「これ、ばあちゃんの大事にしてる宝石? 前に母さんが言ってた」
「そうだよ」
 壊れ物を扱うようにそっと玉を取り出すと、手を出すように指示される。
 言われるままに出した両手で恐る恐る受け取ったそれは、表面は冷たいのに、どこか柔らかな――何ともいえない、不思議な感じを受けた。
「これって、真珠?」
 宝石なんてものを触るのは初めてで、色からするにそれ以外の名称が出てこない。祖母は違うよ、とゆるく首を振っただけで、本当は何なのかを言うことはなかった。
「譲。これはお前が持っていておくれ」
「僕が? でもこれ、ばあちゃんの大事な宝物なんだろ」
「だから、お前に持っていてもらいたいんだよ」
 こちらの手を握らせるように、しわの多い手に包まれる。
 顔を上げると有無を言わせぬ笑顔がそこにあり、反論しようと開いた口はぱくぱくと泳いだ。
「……わかった。じゃあこれは、僕が預かっとく。ばあちゃんが必要になったときに言ってくれれば、ちゃんと返すから」
 取り急ぎ考えた譲歩案に、祖母は満足そうに頷いて優しく頭を撫でてくれた。やがてその体が傾いだかと思うと、ふわりと抱き締められる。
「……ばあちゃん?」
「すまないね……ありがとう、譲」
 どうして謝られているのか、それは聞けなかった。
 祖母の温もりが心地良かったこともある。そして、
(……泣いてる?)
 嗚咽が聞こえたわけでも、涙自体を見たわけでもない。だが何となくそんな気がしたのだ。
 でも何故――もう一つ増えた疑問に戸惑っていると、すっと温もりが遠ざかる。さあ部屋に戻ってお休み、と体を離した祖母はいつもと同じに微笑んでいた。
「じゃあ、おやすみ。ばあちゃん」
「おやすみ、譲」
 襖を閉じて、あれは錯覚だったのだろうかと、玉を戻した箱を抱え階段をのぼる。

 ――それが、祖母と交わした最後の言葉になった。





 翌日。
 祖母はまさしく眠るように亡くなっていたという。
 朝、珍しく起きてこない祖母を起こしに来た母は、眠っているとばかり思ったそうだ。あまりにも気持ちよさそうだったため起こすのが忍びなくなり、兄と自分を学校に送り出して洗濯物を干し終わってようやく、事態が発覚したというわけだ。
 給食の前くらいに連絡が来て、兄と共に学校を早退することになった。
 親戚のおじさんが校門まで迎えに来てくれて戻った自宅は、今朝とはまるで様相が違っていて面食らった。
 近所の人や、黒いスーツは葬儀屋の人だろうか。たくさんの人が出入りしていて、せわしない。
 人が亡くなったというのに、こんな慌しいものなのか――門の前で呆然とする自分を、兄が行くぞ、と促した。

 どんな時でも兄は冷静だった。というより、逆に事態の重さを理解していないように、自分には見える。
 けれど何もわかっていないわけじゃない。
 何故なら、どんなときでも、兄はやるべきことだけは必ずやり通してきたから。確実にやらねばならないことだけは、決して外しはしない、そういう人間なのだ。

 それは自分にはできないことだった。
 もちろんやるべきことはやっているつもりだったし、兄よりもしっかり物事を見ているつもりだった。重要なことは見逃すまいと、気を抜くことなく周りを見ていた。
 そうして、自分が気付けなかった何かを、兄はやり遂げる。

 それは兄として、至らない弟を「フォロー」してくれていた――そういう見方もできるだろう。
 だが残念なことに、自分はどうしても、そう思うことができなかったのだ。

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