いつだったか仕立ててもらった黒い服を着て、自宅の階段に二人で座った。兄は最上段、自分がその二段下に。
 もうすぐ「通夜」というものが始まるらしい。二階の部屋にいると誰かが呼びにこなければならないので、その手間を省くべく、人の動きがわかる階段に陣取ったというわけだ。
 まだ信じられなかった。先程棺に納められた祖母と対面したが、本当にただ眠っているようにしか見えなかったのだ。
 自然、自分を抱き締めるように膝を抱える。昨夜の温もりはまだここにあった。
「……兄さん」
「ん、何だ。譲」
「僕。昨日の夜さ、ばあちゃんと話をしたんだ」
「へえ」
「前に、母さんが言ってただろ、ばあちゃんが大事にしてる綺麗な宝石があるって」
「あー、そういや言ってたかもな」
 それがどうした?と、日頃交わされる雑談と同じに返される。それはますます、祖母が亡くなったという事実を非現実的なものに思わせた。
「その宝石、僕に持っててほしいって、ばあちゃんが」
「昨日、お前が持ってた木の箱か?」
 後ろを振り向かずに、頷く。
「……棺の中に、一緒に入れてあげたほうが……いいかな、やっぱり」
 死者が大事にしていたものを棺に入れてあげることで、死後の世界にも持っていってもらえるようにするのだと、聞いたことがあった。
 朝は、幼馴染を玄関に待たせながら寝坊した兄を急かすので忙しかったし、帰ってきてからは両親とろくに話もできていない。
 昨夜はまさかこんなことになるとは思わなかったから、後で母あたりに保管方法を聞こうと思っていたのに。
 実の息子である父や母を差し置いて、一番重要なものを受け取ってしまった――そう思うと不安になった。本当にこれでいいのだろうか。このまま黙っていたら、何か取り返しのつかないことになるのではないか。
「別に、いいんじゃねえ?」
 暗澹たる心地を上段からばっさり切り捨てたのは――いつだって自分の理解の範疇外に居る――兄だった。
 いつものあの面倒くさそうな口調に、わけのわからない苛立ちを感じながら振り返る。
 びっくりしたような表情を浮かべたのはほんの一瞬。兄は軽く肩を竦めただけで、何もなかったかのように続ける。
「ばあさんが言ったんだろ、お前に持ってて欲しいって」
 突きつけたはずの感情の矛先をかわされ、うまく言葉が返せない。兄の表情がふっ、と緩んだ。
「なら、そうしとけよ。それはもうお前のもんだ」
「僕の……? でも、ばあちゃんだってまさかこんなことになるってわかってて、僕に渡したってわけじゃないだろ、たぶん。なら……」
「どうだろうな。あのばあさん、妙に感がいいとこあったから」
「兄さん。こんなときに、そんな言い方ってないだろ」
 じろりと睨みつけると、兄にしては珍しく、素直に謝ってきた。
「……悪い。今のは言い過ぎた。でも何にしろ、それはお前が持っているべきなんじゃないか? ばあさんの、……最後になっちまった、お願いなんだ。聞いてやれよ」
 「最後」、という言葉が胸に突き刺さる。
 刺さった傷口から何かがじわりと染み出して、祖母がいないという非現実的な事実を、現実の色に染めていった。
「……わかったよ。そう、だよな……そうする」

 にわかに、一階の雰囲気が変わったのを感じた。ふと見ると、親戚の誰だったかが顔を見せて手招きしている。
 ようやく始まるらしい「通夜」に、自分たちは腰を上げた。





 通夜がすんで葬式になると、お隣に住む幼馴染も黒いワンピース姿で弔問に来た。母親に連れられ、お棺の子窓から死に化粧をした祖母を見させてもらっている。何が起きているのか正確に理解していない、そんな風だった。
 遺族として席につかされ、彼女と話せないまま式が終わった。焼き場に行くまで時間があり、ようやく駆け寄ることができる――そう思ったのも束の間。
 ぼんやり立ち尽くす彼女へ、一足先に声をかけたのは兄だった。
「よ」
「まさおみ、くん……あの、このたびは、ごしゅうしょうさまでした」
 聞きかじったのか親から言われたのか、彼女はたどたどしい発音でお悔やみの言葉を述べた。ぺこりと頭を下げて――いつまで経っても、顔だけが上がらない。
「……望美」
 遅れて歩み寄りながら遠目でもわかったのだから、直面した兄はさぞかし戸惑っているのではないか。
 そんな淡い期待は確信めいて裏切られ、近づくこちらへ目配せされる。来いよ、の意味だと解釈して歩幅を広めにした。
 葬儀場の中庭に敷き詰められた砂利の上を、早足で進む。
「ゆず……る、くん」
 踏みしめた砂利の音で気づいたのか、彼女は泣き顔をあげた。
「……」
 彼女を泣かせたら駄目だ――そう思うのに、涙を止めるための言葉が見つからない。
 そうして、互いに何も言えなくなった。慰めの言葉でもかけるべきなのだろうが、気の利いた言葉を繕えるほど自分に余裕がない。
 正直なところショックの大きさは自分の方が上だろう。むしろかけてもらうべきは自分のような気もする。
 それに祖母が亡くなったことを悲しんでくれている、そのことを否定するのは祖母に対してあんまりではないのか。
 色々迷っているうちに見つめることすら困難に思えてきて、ゆっくりと俯き視線をそらす。見えなくなった彼女はすすり泣きを再開した。
 その声を聞いていると、押し止めていた何かがじわじわと氷解してきた。爪が食い込むほど強く両の拳を握り、唇をぐっと噛み締めて、必死で押さえ込もうとする。
 けれど、決壊するのはもう時間の問題だった。
「……っ」
 瞼の奥が熱い。その熱の奔流を外に出すものかと、きつく両目も瞑った。
 暗くなった視界にぼんやり浮かぶものがある。
 幻の祖母は微笑んでいた。
 間違ったことをすれば厳しく叱り、良いことをすれば頭を撫でて誉めてくれた。
「いいかい、譲」
 いつか言い聞かされた、一つの約束。
「あの方をお守りするんだよ」
 何故「あの方」なんて仰々しく口にしたのかは知れない。今はもう問いただすことも叶わない。
「お前は男の子だろう、女の子を守っておあげ」
 最後はもっともらしい理屈で締めて、わかったと元気良く返事をした自分に満足そうな笑みを見せた祖母。
(言われなくてもそうするよ。僕が望美ちゃんを守る。……だから、ばあちゃん――)
「ほらお前ら、二人していつまでも泣いてんじゃねえ」
 無遠慮に回想を打ち切ったのは他ならない兄だった。顔を上げ、肉親を弔う気持ちはないのかと睨んだつもりだったのだが、昨日と同じく肩を竦めて流される。
「っく……将臣くんは、悲しくないの?」
 こちらの気持ちを代弁するように、彼女が言った。言われたことに従おうと、必死に手の甲で涙を拭いながら。
 後から後から溢れてきているそれに、慌ててポケットを探る。見つからない。
「悲しいさ。でもさ、ばあさん、眠るみたいに亡くなったって……苦しまなくて済んだって皆言ってた。こういうのを、えーっと……そうそう、「だいおうじょう」って言うんだろ?」
 彼女とこちらと、涙の乾かないそれぞれの顔を確かめてから、兄は続ける。
「ばあさんは天国へ、安らかに行けたんだ。なのに俺たちがばあさんがいなくなって悲しいって泣いてどうすんだよ」
 違うか?と念を押され、どちらともなく顔を見合わせた。
 先程ごしごしと強く拭ったせいだろう、彼女の目元はずいぶんと赤くなっている。
「つまりだな。良いか悪いかどっちだって話なら、……良いことの方だって、俺は思う」
 言い終えた兄が唇を噛んでいたのを、自分は見逃しはしなかったけれど。
「……そう、だね。泣いてばっかりいたら、スミレおばあちゃん、天国で心配しちゃうよね」
 彼女は滲みかけた最後の涙を手の甲で擦り、無理やりな笑顔を作った。
 それを真正面から向けられたのは勿論、自分ではなかったけれど。
 横顔を見つめるしかできない自分にも、それがどんなに綺麗なものであるか、よくわかっていた。



(ばあちゃん、僕、頑張るから。絶対に望美ちゃんを守るから。だから、安心してくれよな)

 遠い空に向けてひとり呟く。
 両親に呼ばれ、引っ張るために手を繋ぎ駆け出した二人から――目を逸らしながら。

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