クラスの人数分のプリントを抱え、まだ歩き慣れない廊下を進む。
 二限目の休み時間とあって人通りは多く、まだ小学生の意識が抜けていないのか全力疾走で追いかけっこをする同級生がいたりして、なるべく壁沿いのコースを選ぶことにした。
 ただ歩くだけならかわせるだろうが、ずしりと重いプリントを持ったままでというのは難易度が高い。紙というものは結構重いものなんだな、とどうでもいいことを考えていると、前方に教室のドア付近で固まっておしゃべりする女子の集団が見えてきた。
 断続的に現れる追いかけっこの集団(どうやらこの階と一階とをぐるぐる何週もしているらしかった)に気を配りながら、ぺちゃくちゃと姦しい群れをやり過ごす。
 の、途端。
「あれ、譲くん!」
 聞き覚えのある、今朝昇降口で別れたばかりの声に顔をあげると、教科書とノート一式を抱えた幼なじみがいた。
 隣に居るのは友達だろうか、こちらへ値踏みするような視線を送ったあと、誰?と耳打ちしている。
「将臣くん、知ってるよね? その弟の譲くん」
「へえ〜。あんまり似てないね。弟くんの方が賢そうだし」
 ここ最近よく言われるようになった寸評を聞き流していると、彼女が聞いてきた。
「重そうだね、日直?」
「ああいえ、学級委員の雑用です」
「学級委員になったんだ! すごいね、譲くん」
「そんなことないです。単に、やりたがる奴がいなかったってだけで……」
 まとまりのないクラスを受け持つことになった担任に、有川、前期だけでいいから頼めるか、と言われ、断る理由が見つからなかっただけなのだから。
「のぞ……春日先輩は移動教室の帰りですか?」
「うん、そうだけど……譲くん、別に「先輩」なんていいよ、かしこまらなくて」
「そうはいきませんよ。いつまでも子供のときみたいにはいきませんから」
「私は気にしないのに」
「先輩。親しき中にも礼儀あり、と言うでしょう」
「うーん……そういうもの?」
「そういうものです。……では、失礼します」
 会釈をして歩き出すと、またね、と背中に声がかかる。首だけを後方に向けたときには向こうも反対方向へと歩き始めていた。
 先輩の友達とやらの、興奮気味の声が耳に届いて、やれやれと肩をすくめた。
 兄貴と違って礼儀正しいし可愛いじゃないどっちが本命?などと、おそらくは先輩が理解できないことをまくしたてている。
(そんなこと、決まってるじゃないか)
 それは確実に、自分たりえないことだけは、明らかだ。
 両手の荷物が重さを増した気がした。ただの感傷的な錯覚だろうが、逆にじくじくとした心地よさもあった。
 そうして、歪みそうになる表情を強引に引き締めたそのとき。
「望美!」
 こちらも聞き慣れた、聞き違えようのない声。
「ラッキー、行く手間が省けた」
「将臣くん!」
(――どうして)
 どうしてそんな嬉しそうなんですか。俺のときは、もっと普通だったのに。
「今、譲くんに会ったんだよ、ほらそこに――」
「……いねぇみたい、だな」
「あ、あれっ? 本当についさっきまでそこで話してたんだよ」
「あいつ、一人だとやたら足が速いからな。もうそこの角曲がっちまったんだろ」
 指摘通りの廊下の角を曲がったすぐの壁にもたれつつ、ざわめきの中から声を拾う。
 聞いていたいのはたった一人の声なのに――どうしてもあと一人分、聞き取れてしまう。
「それより望美。古語辞典貸してくれ。確かお前のクラスも古典あるだろ、今日」
「あるけど……いつ使うの? 次?」
「ああ」
「じゃあ、終わったらすぐ返しに来てね。うちのクラス四限なんだから」
「ラジャー。助かったぜ、望美」
「もう。取ってくるから、待ってて」
 目的の声はそこで途切れた。聞かなければ良かったと後悔の念にかられながら、足早にその場を離れる。
(仕方がないんだ、だって)

 自分は彼女と、同じところに並べはしないのだから。
 決して縮められない距離の先に、兄と共にいるのだから。

 だから、どうにもならないことを悩んでもしょうがない。
 他のことを、努力するしかない。

(――そうしないと、あのひとを守れない)



 いつかの約束。
 その元来の意義は、もう記憶がおぼろで思い出せない。
 ただそれは、この「有川譲」を構成する第一要素であったから。

 それだけは、必ず守るから。
 求める先は、かなわぬ願いであったとしても。

 ――彼女だけは、必ず守るから。

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